( ^ω^)がマジ切れしたようです

21: ◆foDumesmYQ :2007/10/16(火) 22:54:12.64 ID:Z+GEqtdc0
【2.僕は笑う】
幼稚園、そして、小学校と学年が上がるにつれて、両親以外の他者と接触する機会が増え、
僕は幼心ながらたどり着いた先ほどの理論を実践に移した。

最初は、不気味がられた。

その第一歩として僕が具体的に実践したことは、『笑い』という人間という種の動物特有の反応だ。
大人になって実感したことの一つに、『笑い』の有用性が挙げられる。
『笑い』というものはTPOさえ弁えれば、相手に安心を抱かせ、警戒心を解かせ、
社会生活を円満に営むことにおいて強力な武器となる。

しかし、ただ微笑むだけではだめなのだ。
自然に、爽やかに、心の奥底から出ているように見えて、
なおかつ、他者にとって気持ちのいいものでなければいけない。
中には、相手を不安にさせ、苛立たせ、時には憤慨させる種類のものも存在するからだ。

とは言え、分別もつかない子供が作り笑いをするなどとは、至難である。
改めてその頃の写真を眺めてみれば僕の顔は決まって、
我ながら不自然な、面のような、どこか作為的な薄気味悪い笑みをたたえていた。
美醜の区別のつく人間ならば、写真を見るや否やすぐに嫌悪し、
目を背けたくなるほどの酷い笑顔しか、僕はできなかった。

実際、同級生の母親たちにも陰で囁かれたものだ。

「ねえ……あの子、気味悪くない? ほら、なんて言うのかしら。上手く言えないのだけど……」

「え、あなたも? 私もそう思ってたんだけど……」

「礼儀正しくて、勉強も出来て、『いい子』には違いないんだけど、何だかねえ」



24: ◆foDumesmYQ :2007/10/16(火) 22:56:01.99 ID:Z+GEqtdc0
僕はその陰口を聞くたびに、眼前に霹靂が落とされるほどの衝撃と恐怖を感じた。
僕の恐るべき本性を皆に暴露されてしまうのではないか。
一体、僕の罪を知った両親は、どんな罰を与え、どれほど酷く咎めることだろうか。
もしかしたら、十字架に逆さにはりつけられ火あぶりに処されるのだろうか。

大げさではなく、僕はそれほどまでに打ちひしがれていたのだ。
就寝の時間になると、独り、ベッドの上で頭からすっぽりと布団をかぶり、
がたがたと身震いをしながら刑の到来を待つしかできなかった。

しかしながら、それは僕の杞憂に終わった。

予想に反して、彼女たちは僕の悪魔の本性を言い広めることはしなかった。
今ではその由を知ることもできない。
僕の本性が口に出すのもはばかられるほどに禍々しいものだったのかもしれないし、
その正体を完全に悟りきることができなかったのかもしれない。
ともかく、それは僕にとって都合のいいことであったのは事実だ。

一方で焦燥の思いも募るばかりだった。
見破られてはいけない。
見破られれば、極刑が待っている。
ならば、僕は安息を得るために秘密を守り抜く必要がある。

僕は、笑みという表情を完璧にするために必死になっていた。

僕は可笑しいことを知らない。
腹の底から大笑いをしたことがないのだ。
僕ほどの下郎な存在が嘲ることのできるものなど存在しようもなく、また、僕にそんな資格はない。
だから、いかに滑稽な事象が、剽軽な存在が現れても、僕の中でこみ上がってくるものはない。
ただ、僕以外の他者が共有する『凡庸』から外れている、ということを感じるのみである。



25: ◆foDumesmYQ :2007/10/16(火) 22:57:42.63 ID:Z+GEqtdc0
同時に、嬉しいことを知らない。
心の底から喜んだことがないのだ。
つまり、僕は幸と不幸の区別がまるでつかないのである。
人は、何を以って幸せと呼ぶのであろうか?

母親に連れられ買い物に行く道中、軒先の掃除をしていた近所のおばさんに、

「あなたは、すばらしい手本のようなお父様とお母様を持って幸せものね。
 うちの馬鹿亭主にも、あなたのご両親の爪の垢を煎じて飲ませてやりたいものだわ」

と、言われたことがあった。

完全に理解できなかった。
僕は、彼女のいう『すばらしい手本のようなお父様とお母様』と同じ部屋で過ごし、、
同じ釜の飯を食い、一日の大半を共に暮らしているが、
まったくもって幸福などというものは感じたことがない。
僕が感じていたことといえば、抑圧であり、憂慮であり、畏怖であった。

むしろ、自分で『馬鹿亭主』と呼んでいる者と人生の半分以上もの間、
同棲し続けているおばさんのほうが、よほど気楽なように感じられた。
それでも、彼女は僕を『幸せもの』と呼ぶ。

僕が仮に幸せだとすれば、なんと、この世は絶望的なのだろう。
僕よりも不幸な他者が存在すると考えるだけで身震いがする。
彼らの日常には、僕が味わった以上の無間地獄が待ち構えているのだろうか。
それでいて、なぜ他者に苦痛の顔を見せることもなく、余裕綽々としていられるのか。
胃液が逆流し、身悶えるほどの苦痛であるこの状況が『幸せ』なのだろうか。



27: ◆foDumesmYQ :2007/10/16(火) 22:59:10.84 ID:Z+GEqtdc0
僕は思考を止めた。

彼女の言葉が神の天啓であるかも、悪魔の囁きであるかも僕には判断できないのだ。
ならば、知らないほうがいい。
幸の定義を、不幸の定義を。
適切な状況に応じて、幸せであるふりを、不幸であるふりをすればいいのである。

そのような前提で僕はものを見ていたために、
いつのまにか可笑しいものと可笑しくないもの、そして、幸と不幸の違いがわからなくなっていた。
言わば、笑顔という表情の根源である、楽しみと喜びという感情を知らずに生きてきたのだ。

笑顔の習得には膨大な時間を要した。
自然な笑みを作り出せる者とは、自然な笑みを完膚なきまでに知っている者である。
知っている、とは、意識をせずとも自ずと他者に表現できるということだ。
残念ながら僕はそういった概念がすっぽりと抜け落ちている。
だからこそ僕は限りなく本物に近い『模倣』を演じることにした。

笑顔を作り出すうえで一番参考になったことといえば、
巷で評判のバラエティ番組を食い入るように観察したことだ。

芸人が、何か面白いことをする。
観客は、げらげらと笑い声をあげる。
僕は、そのタイミングにあわせて、げらげらと笑い声を上げるふりをする。

もちろん、一度として面白いと感じたことはなかった。
はたから見れば、番組を見て純粋に笑っているように見えるだろう。
だが、実はこれが一番両親に不審がられずに『模倣』の練習を行える方法だった。



29: ◆foDumesmYQ :2007/10/16(火) 23:01:05.30 ID:Z+GEqtdc0
この観察は功を奏し、僕は晴れて笑う『ふり』を上手にできるようになった。

当然といえば当然のことで、バラエティ番組というのは、
『世間一般的』な通俗性を含んだ内容を視聴者に向けているものであり、
さらに言えばその通俗性の中でも、『笑い』の一点のみを追求したものである。
まさに、『笑い』において教則とも呼べるその番組を、
毎日延々と繰り返し観察し続けた結果、上達しないわけがない。

そのうえ、更なる恩恵を僕に与えてくれた。
他者にとってどういう事象が面白可笑しいか、つまり、
人間という知的な動物から『笑い』という反応を引き出すメカニズムを、理解できたとでも言おうか。

この特技は、他者と(不本意ながらも)社会生活を営むことにおいて、大きな利点となりうる。
僕がもっとも恐れることは、他人の軽蔑に、不快に、逆鱗に触れることだ。
それらを道化を演じることによって、一身に受けることを防ぐわけだ。

しかし、道化といっても単に嘲笑の的となるような白痴とは違う。
それでは僕の意図とはまるで異なってしまう。
笑われるのではく、笑わせる。
適切なタイミングで非難の矛先を逸らし、矢面から逃れるために、笑わせる。
そのために、僕は道化という方法を選ばざるを得なかったのである。

だからこそ、時と場合と節度を守る必要がある。
過多に行うこともいけないし、過少に行うこともいけない。
どちらに傾き過ぎても、相手の厭悪を引き出す結果になるだろう。



33: ◆foDumesmYQ :2007/10/16(火) 23:02:41.77 ID:Z+GEqtdc0
その結果、僕の小学生としての生活は成功を収めた。
同級生から何一つ恨まれることはなかったし、また、成績優秀、品行方正な生徒として、
教師たちの機嫌を損ねることなく、僕の評判は上々なものであった。

ガキ大将に宿題を写させろと言われれば、嫌な顔をせずにノートを貸し出したし、
クラスの男子と女子が言い争いをしている様子を見れば、鞄に忍ばせていたジーンズを頭から被り、
上下ジーンズ怪獣だ、と教室のドアから飛び出して、気まずい雰囲気を和ませたりもしたし、
掲示板にクラス全員分の絵を貼り付ける退屈な仕事を先生に押し付けられても、
放課後遅くまでかかってまで、きちんと言われたとおりやり遂げた。

そして、気がつけば僕は『陽気な茂良(もら)ちゃん』のあだ名を貰いうけるまでに、人気者になっていた。

しかし、勘違いをして欲しくはない。
僕は、決して羨望の眼差しで見られ、人気者としての立場を享受したいわけではない。
単に皆の顔色を伺い、皆の望む行為を常に選択していただけで、
周囲の人間の理想を反映するだけの虚像であっただけだ。
むしろ半ば脅迫観念に近い義務感に駆られ、要らぬ気苦労を背負い込むばかりの日常だった。

そんな僕を皆は『幸せもの』だ、と言った。
全く笑えない、冗談だった。

僕には、皮肉にしか聞こえなかった。
皆は、生皮を剥ぎとられたおどろおどろしい山羊のような僕の正体を知っているのだろうか。
皆は、生きたまま腹を切り裂かれて心臓を抉り取られるような僕の苦しみを知っているのだろうか。
『陽気な茂良ちゃん』のあだ名も、まるで見当はずれだ。
僕の実像は、寡黙で、陰鬱で、醜悪な人間であるのだから。



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