( ^ω^)がマジ切れしたようです

35: ◆foDumesmYQ :2007/10/16(火) 23:04:23.68 ID:Z+GEqtdc0
【3.僕は目覚めた】
人生の分岐点とは、日常のすぐ傍らに転がっている。

これは、中学校へと上がったころの話だ。
僕はある経験を期に、そのことを悟ることとなる。
まさに天変地異とも呼べる、僕の存在意義を揺さぶるほどの出来事だった。

まずは僕の中学校生活においての、一つの習慣――『観察』について話そう。
僕はいつも同じ通学路を通っていた。
家から一歩外に出れば、侘しさや非裕福の象徴ともいえる粗末な家々が並ぶ区画が続き、
さらにまっすぐに十分ほど歩けば、唐草模様の鉄門とコンクリート製の塀で物々しく遮られた屋敷に差し掛かる。
屋敷の前を抜けていくと、今度は大通りに面した十字路にぶつかり、そこでようやく右に曲がることができる。

曲がった先の幹線道路に平行するのは、朽木と化している名も知らぬ街路樹だ。
くすんだ茶褐色をした枝々の隙間から覗く灰色の空は、凄惨とも空虚とも呼ぶべき光景で、
歩道に沿って歩く僕を、一日二回、きまって憂鬱な気分に変えた。
そして、かっきり三十六本目の街路樹を過ぎた左手の横断歩道を渡ったその奥には、
地元の人間しか使わない路地があり、それは再び僕を住宅街の内部へといざなう。

そこは、僕の家がある区画とはまた違った雰囲気をもっていて、
どちらかといえばまだ新しい、建てられたばかりのマンションや一戸建てが並んでいる土地だった。
空き缶はおろか、塵ひとつ見当たらないほど綺麗に整備されていたのが印象的だ。
通勤途中のサラリーマンや、ゴミ出しのために出てきた主婦の身なりを見ても、
どこか小奇麗なもので、自分との生活水準の違いをありありと感じさせられる。

しかし、羨嫉の感情は全く生まれてこなかった。
仮にこちらに住むことになれば、たちまち、この場所を汚してはならないという圧迫感に苛まれ、
絶えず不要な気遣いを振りまかなければならず、僕の悩みの種は尽きることはないだろう。
ともかく、ここでは埃を落とさぬように静かに脚を前に進め、ひたすら直進するのみだ。
ここまで来れば、もう学校は目と鼻の先だ。



37: ◆foDumesmYQ :2007/10/16(火) 23:06:00.92 ID:Z+GEqtdc0
しかし、特筆すべきは僕の母校ではない。
その敷地が見えるか見えないかの位置にひっそりとそびえる、一軒の木造アパート。
そこが、僕の人生観を大きく変貌させた場所だ。

一階二階合わせて四部屋しか存在しない、まるで小さなアパートだった。
周囲の目新しい家々やマンションの中で擬態するためであるのか、
白いペンキで一面塗り固められてはいたが、所々で皮がめくれ、ささくれ立ち、
木材本来の木目がまだらに見え隠れしているところを見ると、それなりに年季が入っていることが伺えた。
だが、僕はそんな古ぼけた建物に、不思議と安堵の念を抱かずにはいられなかった。

幾度となく通学帰宅を繰り返す中で、僕はそのアパートに惹かれはじめていた。
構造から判断する限りだと、部屋のいちばん奥側の窓が道路に面しているようで、
アパートの前を通り過ぎる度に、嫌でも住人の生活が視界に入ってくる。

一階左側の部屋は、水色の花柄のカーテンで遮られて中を伺うことができないが、対照的に、
右側の部屋の窓にはそういった遮蔽物がまったくなく、反対側の入口のドアまで鮮明に見ることができる。
その部屋の住人は、タンクトップとステテコのよく似合う剥げた中年男性で、
一日中スルメを肴に酒を浴びながらテレビを見るという、自堕落な生活を送っているようだった。

そのまま視線を上げて目に入ってくるのは、窓先に多量の洗濯物がぶら下がっている二階右側の部屋だ。
中からは子供らの騒々しい黄色い声、そして、それを叱る母親の声がひっきりなしに響いてくる。
声色は少なくとも、四つ。
六畳一間ほどであろうこの部屋では、少々窮屈であるようにも感じられた。

そしてもっとも僕の興味を惹く、いや、興味の九割九分を占める部屋が、その左隣だ。
そこだけは何か、言い知れぬ異質さを醸し出し、他の部屋とは完全に隔絶されたようにも感ぜられた。
まず、僕の視線を釘付けにしたのは、窓先に干された女性ものの下着だ。
日が経つごとに、下着の色は目まぐるしく変化していったのだが、
たいていは赤、黄、桃、紫などの派手な色をしており、まさに衝撃的だったことを記憶している。



38: ◆foDumesmYQ :2007/10/16(火) 23:07:36.55 ID:Z+GEqtdc0
勘違いして欲しくないのは、僕には女性の下着を収集するような狂気じみた性癖もないし、
それらを盗もうだとか下卑たことを考えたこともない。
一番に、その持ち主の人物像について興味が注がれていたのだ。

しかしながら、欲がまったくなかったと言うのも嘘になる。

中学一年だった当時は、ちょうど精通を覚えたばかりの頃で、
性的なものに少なからず関心があったわけだが、
ただ、先ほども言ったとおり、両親は厳格な人間であったため、
それまで淫猥卑猥な、つまり、性欲を刺激するようなものに触れる機会が全くなかった。
彼らは、茶の間にベッドシーンが流れようものならば、すぐにチャンネルを変えてしまうほど堅気なのだ。

いってみれば、雄の本能ともいうべき欲望の正体を、僕は知らなかった。
思春期に入ってからというもの、心の中で肥大し、成長し、増幅する黒い渦塊にひたすらわななき、
僕の中で再び悪魔の化身が誕生したのだと、絶望した。
射精という行為をはじめて経験した後は、根拠のない罪悪感と喪失感と虚無感で満たされ、
来たるべき断罪の時に一層怯えるようになっていた。

だが、同時にその悪魔を拒絶することができずにいた。
一度精液を排出してしまえば、罪の意識に苛まれることになるのだが、時間が経つにつれて、
それは朝霧のようにすっかりと消え去ってしまい、代わりに黒渦が怒涛のように押し寄せてくる。

そう考えれば、あの『誘惑』はまさしく悪魔の住処に続く門への入口だ。
僕は引き返すことのできない世界へと足を踏み入れたのだ。



41: ◆foDumesmYQ :2007/10/16(火) 23:09:22.58 ID:Z+GEqtdc0
僕は例の部屋の住人を一目見ようと、一日二回、欠かさず窓の中を覗きこんだ。
赤のカーテンが階下の部屋同様に窓を遮っていたのだが、不思議なことに、
いつも半分ほど開いており、逆にその中途半端な隠蔽が僕の好奇心を刺激したのである。

もちろん、堂々と覗き込むことはしない。
何かにつけて、例えば、伸びをするふりをしてちらりと視線をやったり、
はたまた、空に雨雲が覆っている日には、雨を気にするふりをして横目で窺ったりと、
通行人や住民たちに訝られないように、あくまで自然に探るのだ。
こうして、探偵じみた日々の調査によって、断片的ではあるが、
僕は例の部屋の住人の素顔を突き止めることに成功した。

住んでいるのは二十代後半ほどの女性。
まあ、これは干されている洗濯物の内容で大体把握できる。
問題は、その職業だ。
朝の通学時と夕方の帰宅時に、僕はその窓を観察していたのだが、
決まって朝は電気も付いておらず真っ暗なのに対して、
夕方はテレビから発せられている青白い光だけが漏れ出していた。

状況から、僕はOLでも住んでいるのであろうかと察したが、残念ながらそれも違った。
たまたま午前中で授業が終わって、いつもよりも早い持間にアパートの前に通りがかり、
ふと中を覗いてみると、ぼんやりと薄暗い光が揺らめいていたし、
逆に、部活の大会に向けて夜遅くまで残っていたときに通りがかり、そっと覗いてみると、
部屋には一切の暗闇があるのみで、静まり返った空間と化していたのだ。

どう考えても、一般人の生活リズムとはまるで違っていた。
居るはずの時に居なく、居ないはずの時に居る。
そこに、どこかしら引っかかるものがあった。
しかしながら、白昼に見た時はたまたま仕事が休みだったかもしれないし、
夜遅くに見た時はたまたま外出していたのかもしれない。
ともかく、あれこれ邪推しても仕方が無かったため、僕はそこまで深く追求することはしなかった。



43: ◆foDumesmYQ :2007/10/16(火) 23:11:02.61 ID:Z+GEqtdc0
しかし、それは完全に否定されることになる。
ある日、僕はある光景を目の当たりにして、確証を得ることとなったのだ。

いつもよりもほんの一時間だけ、帰りが遅くなった時のことだった。
僕は例にももれず日課の一つとして、あの部屋を見ようとアパートの前に差し掛かる。
だが、アパートの前には一台のタクシーが止まっていた。

一体誰が使うのか、と僕は思考をめぐらした。
あの剥げた中年の男性が使うのか、と一階右側の部屋を見てみると、
下着姿のまま酒を食らっており、どう見てもこれから出かける様子は見られない。
では、二階右側の部屋に住む母子家族が使うのか、とそのまま上を見上げると、
食事をこぼす子供を叱っている母親の声が響いてきたため、これも違うと悟った。

では、一階左側のまだ見ぬ、正体不明の住人かと睨んだが、
支度をする音がまったく聞こえてこないことから、相変わらず不在であるようだ。
ならば、と僕がその真上に視線を傾けようとした、

その瞬間だった。

(*゚∀゚)「ごめんね、待たせちゃったわさ。化粧が上手く乗らなかったからさっ。
     でも、もういいよ。とりあえず、二戸町まで出して頂戴」

ハイヒールが階段の段差を踏みつける、カツカツと高い音が響いてきた後に、
一人の女性がアパートから飛び出してきて、タクシーのほうに駆け寄り、
口早に謝罪の言葉と行き先だけ告げると、そのまま、半ば強引に中に飛び乗ったのだ。

僕は、呆気にとられ、立ち止まってしまった。
思わぬところで、あの部屋の住人の姿を見てしまったこともそうだったが、
想像の斜め上をゆく彼女の容貌に、釘付けになってしまったのだ。



45: ◆foDumesmYQ :2007/10/16(火) 23:12:50.04 ID:Z+GEqtdc0
まさに三文小説に出てくるような娼婦が、ページを突き破って実体化したような下品な装いだった。

乳房を無理やり押し込ませ、不自然に谷間を強調させるような仕立てのドレスは、どこか仮装じみている。
所狭しとスパンコールがちりばめられ、まばゆいほどに光をちらつかせているストールは、妙に安っぽい。
染色のために傷んだ毛を無理やり束ね、ねじり込み、くくり上げたヘアースタイルは、浮浪者のように汚らわしい。

男性である僕が注意したくなるほど、化粧のしかたもまるで酷いものだ。
ファンデーションを塗りたくった面皮の白と対照的に、毒々しい口紅の赤だけがやけに浮いており、
まるで、売れないサーカスでおどけるピエロのごとく、醜い表情だった。

今振り返ってみて、僕がこんな風に感じているように、実際美しい容貌でもなかったのだが、
雌という生物を表面上でしか捉えていなかった、つまり、女性を知らなかった思春期の僕は、
彼女に本能を揺さぶられ、欲情を搾りとられ、妄想を掻きたてられた。
そして、そのあばずれた姿にサンタ・マリアの後光を重ねてしまった。
言わば彼女は僕にとって、未知の存在であり憧憬の対象であったのだ。

最初の衝撃的な出会いは、刹那の間ともいえるほどに短いものであった。
しかし、目を閉じれば、瞼の裏に彼女の姿がありありと浮かぶほどに、
停まっていたタクシーのナンバーや、塀に貼られた町内会の掲示物の内容、
さらには頭上を走る電線の本数をそらで言えるほどに、僕の脳裏にはその光景がはっきりと焼き付いていた。

僕はその日以来、彼女との再会をひどく鶴望し、悶々とした思いに悩まされ続けた。
授業中も、ずっと教室の窓からアパートの方角を眺めるばかりになり、
通学帰宅の際に彼女の覗き込む行為も、気づかぬうちにあからさまなものとなっていた。
たまたま、洗濯物を干すために窓から半身を乗り出している彼女の姿を見ることができたときは、歓喜に震えた。
室内での彼女の服装は色あせてくたびれたタンクトップ一枚であったのだが、それがまた逆に僕の淫欲をそそった。



46: ◆foDumesmYQ :2007/10/16(火) 23:14:29.69 ID:Z+GEqtdc0
僕は、彼女の『観察』に夢中になっていた。
この行為が、僕のはじめて感じた喜びであり、楽しみでもあった。
そして、彼女のアパートの前を往来する、このつかの間のひとときだけが、
僕の生きている意味であったとしても過言ではない。

ただし、彼女と知り合いになりたいだとか、会って話がしたいだとか、そんな願望はまるでなかった。
そこまで惹かれておきながらも、やはり彼女という他者が怖かったのだ。
それに、僕のやっていることは、陰湿で、ねちっこく、気味悪いことであり、
『世間一般的』に非難されるべき行為だということはわかっていた。
仮に、それが明るみに出てしまったならば、たちまち彼女は僕を排斥しようとするだろう。

しかし、僕はアパートの部屋を覗き込む習慣を止めなかった。
不思議なことに、きまって彼女が窓から顔を出す時間は同じであったため、
僕は彼女の姿を見逃さないよう、そのころを狙ってアパートの前を過ぎる。

冷静になって考えてみるとひどく軽率だ。
それでも、抑えることができなかった。
理性と恐怖と冷静を跳ね除けて、暴走するばかりだった。
まさに僕は、狂信者だ。
山中での密修から久しぶりに街に戻ってきた聖者の姿をありがたがる、おろかな民衆そのものだ。

だが、よほど無頓着で鈍感な人間でないかぎり、
毎日のように自分の周囲を嗅ぎまわるような不穏な気配に気づかないはずがない。
もちろんのこと、彼女も例外ではなかったわけだ。

彼女はとっくに僕の存在に気づいていた。
そして、僕の体内でうごめく黒い悪魔にも。

おかげで、期待することのなかった彼女との際会が訪れることとなったのである。



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