(´・ω・`)はメールを打つようです

1: 「夏」 :2007/08/25(土) 22:47:39.13 ID:Li1DZ2py0
カーテンの隙間から差し込む朝の日差しに、僕は目覚めさせられた。

すぐさま枕元に置いてある時計に目を遣る。
見れば、八時を少しばかり回ったところだ。
アラーム機能を使わない僕は常に自分の感覚で起床している。

今日は休日、もう少し寝坊しても問題ないが、
買い物に行く予定だった僕は体を起こし、洗面所に向かった。


顔を洗い、歯を磨き、髪を手櫛でさっと整える。
鏡に映る寝惚けた自分の顔はどこかしょぼくれていて、
だけど僕はこの顔が嫌いではなかった。

キッチンに向かいインスタントコーヒーを淹れた。

砂糖は入れず、ミルクのみを加え一口飲む。
香り高い苦味が口一杯に広がり、僕の頭はようやく眠気から解放された。



2: 「夏」 :2007/08/25(土) 22:49:21.67 ID:Li1DZ2py0
コーヒーを作る間に準備しておいたトーストが焼き上がった。
トースターのランプの色の変化を見て、その出来上がりを確認する。
バターを塗ると熱でさっと溶け、じんわりと染み込んでいく。
食べると、カリッとした表面と、フワッとした中身との食感の対比を楽しめた。

簡単で、かつ自分にとって満足な朝食を済ませると、
僕はよれよれのパジャマから着馴れた洋服へと着替えた。

白いポロシャツに、薄いグレーのスラックス。
シンプルだが、こう見えて中々にいい値段がする。
その事実を前面に押し出さない事が、僕なりのお洒落だ。


窓から外の様子を見ると、今日も気温が高い事が分かる。
なるべく夏らしく、涼しげな服を身に纏い、僕は家を後にした。

最後にもう一度だけ時計を見た。
それは十時過ぎの、一番暑い時刻を示していた。



3: 「夏」 :2007/08/25(土) 22:51:35.64 ID:Li1DZ2py0
電車を乗り継ぎ、街に出てショッピングモールを目指す。

やはり太陽の熱射が厳しい。
僕は時々、ハンカチで汗を拭いながら人ごみの中を潜り抜けていった。

途中で配られているチラシを受け取る。
駅前の大通りに、新しく料理店が出来たらしい。
今度行ってみよう、と心の中で呟いた。


歩みを進めるにつれ人の数は増えていく。
都会の喧騒も、僕には有り触れた穏やかな日常としか捉えられない。


行き交う人々の足取りはそれぞれで、
瞳にせわしなく映る人影は、すぐに視界から消えていってしまった。

それはまるで、現代社会の縮図のように思えた。



5: 「夏」 :2007/08/25(土) 22:53:44.37 ID:Li1DZ2py0
センター街へと続く道には、
たじろぐ程たくさんの人が各々の目的を抱えながら集っている。
群衆から少し離れた所で、僕は信号待ちをした。

光が、赤から青に変わった。

横断歩道を渡る度に凍りつくような緊張に襲われる。
誰かとぶつかったらどうしよう、突然車が来たらどうしよう。
周囲の人は全く気に掛けていないようだが、僕は未だに慣れられない。
渡り切ると、人知れず安堵するのだった。


駅付近のの道を抜け、街の中心部に辿り着いた。
そびえ立つ高層ビル、追い立てられるように生きる人達。
歩きながらその光景を眺めると、何故か笑ってしまう。

きっと、自分がその世界に入っていけないからなのだろう。


そんな事を考えていると、
突然、肩を掴まれた。



8: 「夏」 :2007/08/25(土) 22:55:58.95 ID:Li1DZ2py0
(#゚ー゚)「――――――!!」

振り返ると、女性が何やら物凄い剣幕で騒ぎ立てていた。
言っている事は分からないが、どうやら、僕に対して怒っているらしい。

(;´・ω・`)「…………」

僕はうろたえて、困惑しながら女性の顔を見る。

見たところ、僕よりも年齢は下で、不謹慎ながら可憐にさえ思えた。
何の言葉を発しない僕の態度に、彼女はますます腹を立てているようだ。


あまり言いたくはないのだけれど、仕方がないな。


僕は諦めて、彼女に伝えることにした。

僕は胸のポケットからペンを取り出し、
先程受け取ったチラシの裏に手早く文字を書き、それを見せた。



9: 「夏」 :2007/08/25(土) 22:57:41.52 ID:Li1DZ2py0


すみません。
    
僕は、耳が聴こえないんです。



10: 「夏」 :2007/08/25(土) 22:59:41.94 ID:Li1DZ2py0
(;゚ー゚)「――――!?」

その文字を見て、彼女の顔は驚きの表情に変わった。
同時に、慌てて頭を下げる。
唇の動きから、「ごめんなさい」と言っている事がかろうじて読み取れた。

(;゚ー゚)「――――――!」

(;´・ω・`)「…………」

そんな女性の姿を見て、狼狽しながら顔を上げるようにジェスチャーで促した。
彼女は何も悪くない。
悪いのは、聴覚障害の僕だから。

それよりも、女性が何故怒っていたのかという事の方が気になり、
僕はまた新たに文字を書いて見せた。
手話を使おうかとも考えたけれども、限られた人にしか伝わらない言葉よりは、
こうして、誰にでも伝わる言葉を用いる方が都合が良いだろう。

(´・ω・`)『気にしないで下さい。そんな事より、僕に何か用でしょうか?』



12: 「夏」 :2007/08/25(土) 23:01:34.57 ID:Li1DZ2py0
文字を見せると共に女性に紙とペンを渡し、
「ここに用件を書いて下さい」と、身振り手振りで伝えた。

でもそれだけじゃきっと萎縮させてしまうから、
柔らかく、そっと微笑んだ。

(;゚ー゚)「――――――」

僕の所作に彼女は驚いたのか、一瞬身動ぎする。
だけども、それはやはり一瞬の事だった。

(;゚ー゚)「――――」

彼女は僕から紙とペンを苦笑いしながら受け取り、
さらさらと、流れるような手捌きでペンを余白の上に走らせた。

僅かな時間で書き上げると、女性は怖ず怖ずとその文字を僕に見せた。

(;゚ー゚)『この辺りに、美味しいランチを食べられるお店はないでしょうか?』



13: 「夏」 :2007/08/25(土) 23:03:10.52 ID:Li1DZ2py0
よく目を通すと、いかにも申し訳程度に別の文字が添えられていた。


(;゚ー゚)『すみません、本当に大した事では無いんです。
    こんな事より、先程の無礼を謝りたい気持ちで一杯です』


やや長めの文章だが、小さく控えめな文字で書かれている。
僕はその文字を見て、何だかくすりと笑いたい気になった。

そうやってじっくりと文字を見返していると、
女性は僕から紙を奪い取り、顔を真っ赤にして文を付け加えた。

(;゚ー゚)『ごめんなさい。迷惑をお掛け致しました。
    不快に感じたようでしたら、何でもお詫びをします』

本当に申し訳なさそうな文字を見て、逆に居た堪れない気分になった僕は、
制止してもなお頭を下げ続ける彼女に向けて気にしていない事をアピールする。

それでも言葉無しでははっきりとは伝えられないから、
僕は紙を受け取り、答えを文字に託した。



14: 「夏」 :2007/08/25(土) 23:04:52.50 ID:Li1DZ2py0
(´・ω・`)『いえいえ、そのぐらいの用件でしたら幾らでもお答えします』

この街には僕の行きつけのパスタの店がある。
味は言うまでも無く、店内も綺麗で、値段も良心的。
何より、耳の不自由な自分にも一人の客として対等に接してくれる。
それは僕にとってこの上なく嬉しい事だった。

(´・ω・`)(文章で説明するのは難しいな……)

残り僅かとなったチラシの裏の余白を見て思案する。
地図を書こうにも十分なスペースはない。
かと言って、文字だけで説明出来る程の表現力は持ち合わせていなかった。

ふと顔を上げると、今度は女性がうろたえていた。
言葉は分からない。だけど、表情からある程度は感情は読み取れる。
今は多分、お節介な僕の行動に戸惑っているのだろう。

だから僕は、もう一度微笑んだ。



19: 「夏」 :2007/08/25(土) 23:07:28.48 ID:Li1DZ2py0
あれこれとややこしく考えたりもしたが、
結局、巡り巡って辿り着いた結論は単純明快な事。

(´・ω・`)『良かったら、案内しますよ』

僕は真っ黒になりつつあるチラシを彼女に渡した。
それを見て、彼女は首と手を神経が繋がっているかのように横に振る。
けれど、拒絶というよりは遠慮といった感じだ。


しばらく、筆談が続いた。

(;゚ー゚)『そんな、申し訳ないです』

(´・ω・`)『いやいや、丁度僕もその店に行こうと思っていたところですから』

(;゚ー゚)『ですが、迷惑を掛けた上にそこまでして頂く訳にはいけません。
    こちらが何かしたいぐらいですのに』



21: 「夏」 :2007/08/25(土) 23:09:02.06 ID:Li1DZ2py0
女性は本当に済まなさそうに文字を書く。

だけど僕は、如何せんお人好しな性格のせいか、
どうにもちょっとした親切を最後までやり切りたくなってしまう。

(´・ω・`)『それでは、お詫びとして昼食をご馳走して頂けませんか?』

(;゚ー゚)「――――――?」

おかしな提案に、彼女は拍子抜けして不思議そうな顔をする。
こう言っては何だが、自分でも無茶苦茶な論理だと思う。

恐らく僕は、久々の長話に興奮を覚えていたのだろう。
だからなのか、この出会いが、偶然ではない事のように感じてしまっていた。
何とも勝手な思い込みだ、と心の中で自嘲する。


僕は一人でしかないのに。



23: 「夏」 :2007/08/25(土) 23:11:09.42 ID:Li1DZ2py0
(´・ω・`)『それならば、構わないでしょう?』

僕はもう一行ばかり文字を並べた。

彼女は戸惑いながらもペンを握る。
何か上手く言い包められた人のように、言葉を綴った。

(;゚ー゚)『確かに、私もお詫びをしたいと言った手前、
    貴方の希望は不可能な事以外は聞こうとは思いますが』

(´・ω・`)『光栄です。では、付いて来て下さい』

僕の強引な申し出に、女性は観念した様子で、
ほんの少ししかない紙の隙間に、細やかな文字で返事を書いた。

(*゚ー゚)『はぁ、分かりました』

そのたった数文字で、紙の余白は完全に埋め尽くされ、
二人が会話する空間は失われた。



24: 「夏」 :2007/08/25(土) 23:12:45.68 ID:Li1DZ2py0
僕は女性の数歩前を歩いて先導した。

すれ違う人々とは対照的に、並んだ建物はいつまでもそこに在り続ける。
その持続性が絶えず変化する僕達現代人に安心感を与えるのだろう。

会話もなく、微妙な距離を保って僕達は歩いていく。
やはり彼女はどこか遠慮がちにしている。
そんな彼女の気を和らげようと、植樹された大きな木や建造物等を指差し、
「これは、この街では有名な場所です」と言った事を伝えようとした。


おかしいな。
届くはずはないのに、何で僕はこんな事をしているのだろう。


僕には当たり前の事だけれど、女性には長い沈黙は耐えられないだろうから、
何とかして空気を明るくしようと努める。

でも言葉をいくら声にしようとも、呻き声のような音にしかならない。
もっとも、その音すらも僕の耳には届かないのだけれども。

空を見上げる。息を呑む程青くて、吸い込まれそうだった。



26: 「夏」 :2007/08/25(土) 23:15:00.77 ID:Li1DZ2py0
店に到着し、ウェイターに案内されるままに席についた。
備え付けのメニューを開き、注文を決めようと写真と文字に目を通す。

ここまで会話はなく、気まずくなった僕は何とか筆談をしようと思い紙を探す。
すると、彼女は携帯を取り出し、僕にもそうするよう目と手で合図した。

(*゚ー゚)「――――――」

(´・ω・`)「…………」

どういう事なのだろう、と考えながら携帯を渡し、
彼女の行動をつぶさに観察する。

女性は二つの携帯の画面を見比べ、
可愛らしいストラップが一つぶらさがった自身の携帯に何やら打ち込んでいる。
それが終わると、僕に携帯を返し再び何かを打ち込み始めた。

僕が不思議そうな顔をすると、今度は彼女が微笑んだ。
さっきの街中での出来事と立場が逆転していた。



28: 「夏」 :2007/08/25(土) 23:17:01.59 ID:Li1DZ2py0
しばらくして、僕の携帯が震えた。

開いてチェックすると、見知らぬアドレスからのメールが一件。
内容を見てみる。


(*゚ー゚)『メールで会話しませんか?』


ほんの一行の文を読んで、すぐに先程の女性の行動を理解した。
僕は返答のメールを打った。


(´・ω・`)『いいアイディアですね』


数秒程タイムラグはあれど、僕達はメールを通じて会話をすることが出来た。
オススメのパスタを指差しながら、メールで彼女にその解説をする。
そして彼女は、これまたメールで僕に返事をするのだった。

すぐ近くにいるのにメールでやり取りをする二人。
傍から見れば滑稽な光景だろう。
だけど僕達にはそれ以外に方法がなかった。



30: 「夏」 :2007/08/25(土) 23:19:04.35 ID:Li1DZ2py0
大きく開かれた座席脇の窓からは都会の景色が一望できる。
複雑に入り組んだアスファルトの道路。
その上を走り続ける車は、まるで時計の針のようで、決して留まる事はない。

流れるように時間は過ぎていく。
そして車の交通も、流れるように過ぎていく。

蒼天で煌めく太陽。

人々は炎天下の街を歩いていた。

日に照らされたその顔はよくは見えない。
絶えず動く人影は砂漠の細かい砂粒を思わせる。
群れているようで、実の所孤独を抱えながら生きる生命体。

だがそれが当たり前の事なのだろう。

何も聴く事が出来ない自分はこの街の循環から取り残されている。
僕も普通の、一人の人間としてそこに紛れたかった。



31: 「夏」 :2007/08/25(土) 23:21:07.11 ID:Li1DZ2py0
頼んだパスタが運ばれてきた。
丁寧にフォークで巻き取りながら頬張る。
うん、相変わらず美味しい。
海鮮の旨味が溶け出したトマトソースが程好い歯応えのパスタによく絡んでいる。
甘さと酸っぱさのバランスが絶妙で、有りがちなくどさは微塵も感じられなかった。

気付くと、携帯が震えた。
慌てて中身をチェックする。

(*゚ー゚)『このパスタ、美味しいですね』

顔を上げると、女性は本当に美味しそうにパスタを食べている。
そして僕の顔を見て、ニコッと笑った。
僕は急いで返信を打つ。

(´・ω・`)『でしょう?』

その短い文章を読んで、彼女はまた笑い、僕も笑顔になった。



32: 「夏」 :2007/08/25(土) 23:23:17.78 ID:Li1DZ2py0
食後、僕は女性に何故怒っていたのかを尋ねてみた。
すると彼女はまた顔を赤くして、頭を下げながらメールを打った。

聞けば、彼女が道行く僕に質問したところ、
その事に僕が気付けずに結果として無視した形になってしまい、腹を立てたらしい。

話を聞く限りでは、やはり彼女に落ち度なんて無い。
僕は返事を打ち込んだ。

(´・ω・`)『そんなの、謝る事ではないですよ』

(*゚ー゚)『でも、やはり失礼な行為をしてしまいました』

僕は何度も気にしていないことをアピールし、
彼女は何度も申し訳なく思っていることをアピールする。

(´・ω・`)『いえいえ、僕は全然気にしていませんから。
      むしろ、おかげでご馳走して頂いてラッキーだと思っています』

僕の他愛も無い冗談に、彼女はようやく緊張が解けたのか、
次に来たメールはくだけた文章だった。

(*゚ー゚)『あら、そう来ましたかw』



34: 「夏」 :2007/08/25(土) 23:25:10.11 ID:Li1DZ2py0
互いに笑い合って妨げていた隔たりが無くなったのか、
その後は軽い雑談になった。


楽しかった。
こんなに楽しい時間は久方ぶりだ
やはり偶然ではなかったのではないかと、僕は一人考える。
いや、一人だったら悲しいかな。


(*゚ー゚)『そう言えば、まだ自己紹介をしていませんね』

(´・ω・`)『ああ、本当ですね』

僕達は顔を見合わせながら、自分の名前を打ち込み、相手に送信した。


(*゚ー゚)『私は、しぃと言います』

(´・ω・`)『僕は、ショボン』


たった数バイトのデータの交換は、その容量以上に大きな物のように感じられた。



35: 「夏」 :2007/08/25(土) 23:27:13.74 ID:Li1DZ2py0
(*゚ー゚)『すみません、ちょっとトイレに行ってきます』

(´・ω・`)『分かりました』

三十分程度の談笑の後、彼女は席を立ちお手洗いへと向かった。

空になった皿はすでに下げられ、テーブルには伝票が置かれている。
僕はそれを手に取り、レジに向かい清算を済ませた。

最初からそのつもりだった。
彼女に非は無い、あるとしたら僕の方だと思ったから。
親切心だとか、そんな気持ちじゃなくて、自分からそうしたいと思ったから。

窓の向こうに広がる風景は依然として変わりない。
僕は一通のメールを送り、静かに店を後にした。


(´・ω・`)『パスタの代金は支払っておきました。
      返信は要りません。それでは』



38: 「夏」 :2007/08/25(土) 23:28:58.95 ID:Li1DZ2py0
ドアを開け店を出ると、そこに吊り下げられたベルが揺れる。
いつも思うのだが、一体どんな音がするのだろうか。
歩きながら想像を膨らませる。
理想とするのは、澄み切った、爽やかな音色。

でも僕には、それがどんな音なのかさえも分からない。

衝動に駆られて青空を仰ぎ見た。
きっと、この空を見た時のような気持ちにさせてくれる、そんな音なのだろう。


洒落た商店が立ち並ぶ通りに足を踏み入れる。

思い出したように、ごそごそと先程のチラシをポケットから取り出した。
元は新しいレストランの開店を報せる広告。
裏面はびっしりと文字で埋め尽くされ、白は黒に覆われている。

僕はそれを丁寧に折りたたんで、そっと仕舞い込んだ。



41: 「夏」 :2007/08/25(土) 23:31:08.77 ID:Li1DZ2py0
夜。

八月半ばの丸い月は一年で最も美しい月の姿だ。
そんな満月が輝く時間に、僕は帰宅した。

鍵を開けて扉をくぐり、廊下の電灯を点ける。
赤と白の中間のような、例えようのない光が僕を包んだ。

当初の目的に従って、馴染みの店で幾つか食器を購入した。
リビングのテーブルの上に得た品を並べる。
数枚の丸い皿。
夜空の満月には敵わないけれど、十分に綺麗だった。

一通り眺めて、僕はそれらを食器棚へと仕舞った。
大窓のカーテンを開けると、やはり月は最高に美しかった。



44: 「夏」 :2007/08/25(土) 23:33:27.53 ID:Li1DZ2py0
買ってきたコンビニ弁当を胃の中に詰め込んで、パソコンを立ち上げる。

僕の仕事は在宅のWebデザイナー。
依頼者との言葉のやり取りを電子上で行えるこの職業は、
聾唖者の僕にはうってつけだった。

子供の頃は懸命に勉強して手話を覚えたりもした。
役に立つ時もあるけれど、それでも不便な時の方が断然多い。
だから、文字を使った通信は便利だった。

送受信をすると、新着のメールが二通来ている。
一つは仕事の依頼。もう一つは良くある迷惑メール。
今日は自分の中で決めた休日なのだから、
出来る事なら、仕事の話は止めて欲しいものだ。

適当に返事を送った後、シャワーを浴びようと思い服を脱ぐ。
その際、シャツのポケットから携帯を取り出すとある事に気が付いた。


一件のメールが届いていた。



47: 「夏」 :2007/08/25(土) 23:35:07.83 ID:Li1DZ2py0
(´・ω・`)(あれ、こんなのいつ入ったんだ?)

何で気付けなかったのだろう。
食器選びに夢中になっていたからだろうか。

数時間前の自分の行動を振り返りながら、ゆっくりと携帯を開いた。
件名と差出人を確認する。


件名は無題。

差出人は、しぃ。


いつの間にか、僕はその名前でアドレスを登録していた。

(;´・ω・`)(何をやっているんだ、僕は……)

我ながらストーカーのようで気持ちが悪くなる。
つい反省してしまった。情けない男だ。

そんな風に自己嫌悪に陥りながらも、書かれてある内容に目を通した。



51: 「夏」 :2007/08/25(土) 23:37:03.11 ID:Li1DZ2py0
(;゚ー゚)『ご馳走するのは私の方ではなかったですか!?
    あれではますます申し訳なく思ってしまいます!
    逆にご馳走して頂くだなんて、どういうつもりなんでしょうか!?
    失礼ながらお願いします、答えて下さい!』


読み終えたところで、僕は思わず笑ってしまった。
多用されたエクスクラメーションマークを見て、
そこから、困り果てる彼女の焦った顔が容易に想像出来たからだ。

僕は簡潔に返事を書いた。

(´・ω・`)『あれは僕なりのお詫びです。
      そもそも、貴方を怒らせてしまったのは僕のせいなのですから』

思いつく限りの気取らない台詞。
これなら気持ち悪くないかな、などとくだらない事を考えながら文字を打った。

(´・ω・`)(……何を心配する事があるのやら)

はぁ、と深い溜息を吐いた。
冬に吐く息よりも、何故か暖かかった。



57: 「夏」 :2007/08/25(土) 23:39:05.24 ID:Li1DZ2py0
返信が遅れたので、すぐにメールが返ってくる事は期待しなかった。
だけど携帯が震え出したのは、それからすぐの事。


(;゚ー゚)『いえいえ、ショボンさんは何も悪くはないです。
    それなのに、こうして頂いては私の気が治まりません!
    あの、もしよろしかったらですが、
    また違う日に、ご馳走させて貰えませんか?』


そこに書かれた文字を見て、今度は僕が困り果ててしまった。

(´・ω・`)(参ったな。余計な迷惑を掛けてしまったようだ)

僕は少しの間思考を巡らせて、メールを打つ。


(´・ω・`)『そう言いますのなら、折角ですので有難く頂戴しようと思います。
      ただ、お詫びだとかそんな気持ちは要りませんよ』


送信した後で、それが本心とは懸け離れている文章である事に気付いた。
いや、本当はこれこそが本心なのだろう。

僕はまた、あの楽しい時間を過ごしたいと無意識に願っていた。



61: 「秋」 :2007/08/25(土) 23:40:44.37 ID:Li1DZ2py0
二人共に都合の合う日時は中々見つけられず、
結果として、約束の日取りは秋口になってしまった。


その間も、僕達はメールで交流を続けた。

初めは遠慮気味で、負い目を感じているかのようだったしぃの文章も、
何度かメールの交換をするうちに解消されるようになっていった。

今では気兼ねなく話が出来る関係になった。
所謂メル友と言う奴か。
僕はその辺りの事情には疎いけれども、ともかく、そういう事だ。

こうして話を進めるうちに、僕達はお詫び等と言う形ではなくて、
大人のデートとしての、楽しむ事を目的とした食事をしようと言う次第に到った。



64: 「秋」 :2007/08/25(土) 23:42:40.93 ID:Li1DZ2py0
そして今日、約束の日が来た。


薄手のジャケットを羽織り、細身の黒のパンツで決める。
首元からチラリとネックレスを覗かせるカジュアルな服装。
もしも、連れて行かれる所がノーネクタイでは入れない店だったらどうしようか、
などと不要な心配をしてしまった。


僕は定めた時刻よりも幾分早く待ち合わせ場所に来た。

夏場に彼女に紹介した大きな樹木。
その木影で、多くの人と同様に待ち人を待った。

あの季節には目に鮮やかな新緑を広げていたのに、
今は、ほのかに色付き始めた葉をひらひらと散らしている。

時の流れは、万物の成長を見守ってくれている事を改めて実感した。



66: 「秋」 :2007/08/25(土) 23:44:23.40 ID:Li1DZ2py0
始まり立ての紅葉に目を奪われていると、
気が抜けていたところで携帯が震え、僕は慌ててそれを開いた。


(*゚ー゚)『ごめんなさい、少し遅れちゃいました』


僕は周囲に目を配る。
現れては去っていくたくさんの人々。
この辺りは特に人通りも多く、
その人集りに埋もれて、すぐには見つけられないだろう。


そう思っていたけれど、彼女は人ごみに紛れてはいなかった。

僕の目には彼女の姿が際立って映っていた。



68: 「秋」 :2007/08/25(土) 23:46:36.21 ID:Li1DZ2py0
綺麗だ。


それが率直な感想だった。

初めて会った時は、まだ思春期を終えたばかりの少女のようで、
美人というよりは可愛らしいという印象を抱いた。

だが、今僕の前に立っている姿は違う。
清楚な洋服に身を包んだ、大人びた一人の女性。
彼女はただただ、綺麗だった。

ベージュを基調としたシックで落ち着いた服装。
肩にそっと掛かる程度のセミロングの髪型に、薄紅色をしたルージュ。
何もかもが彼女の白い肌に良く映えている。

服装と化粧の工夫次第で人はこうまで変わるものなのか。
それとも、僕の目がそんな風に見てしまっているだけなのか。

きっとそのどちらでもない。
全ては、彼女らしさなのだから。



70: 「秋」 :2007/08/25(土) 23:48:36.24 ID:Li1DZ2py0
再び携帯が震える。

(*゚ー゚)『あの、結構な時間待ちましたか?』

(´・ω・`)『いや、今来たばかりです』

(*゚ー゚)『ああ、でしたら良かったですw』

当たり障りもない会話。
この時、僕の心臓はばくばくと驚く程速く動いていた。
聴こえなくても、感じる事が出来た。

(*゚ー゚)『それでは、行きましょうか』

彼女が先立ち、僕を手招きして呼ぶ。
黒い髪が秋風に乗って揺れ、甘いシャンプーの香りが流れてくる。

僕は一歩を踏み出した。
何気ないその一歩が、とても重要なことのように思われた。



74: 「秋」 :2007/08/25(土) 23:50:29.22 ID:Li1DZ2py0
果たして、どんな店に連れて行ってくれるのだろうか。
その事を聞いても、しぃは答えてはくれなかった。

彼女はあまりこの街に詳しくはない。
地理に関しては僕の方がずっと明るい。
それでも、彼女は自分の知る道を精一杯僕に文字と動作で伝えてくれた。

会話もなく、携帯を弄りながら歩く二人。

周りの人からは冷め切ったカップルのように見えているだろう。
だけども、僕達はメールが届く度に顔を見合わせるので、
彼らにはより奇妙に映っているはずだ。

その事を彼女にメールで告げると、くすくすと笑っていた。

メールを送って、返信が来る。
そんな些細な事が、僕には嬉しかった。



77: 「秋」 :2007/08/25(土) 23:52:21.11 ID:Li1DZ2py0
案内された道は僕の知らない場所で、
人通りも少なく、都心とは思えないような落ち着いた所だった。

(*゚ー゚)「――――――」

彼女は右手で指差し、目配せしながら到着と店の位置を伝えた。
綺麗に敷き詰められた石畳の上に並べられた白塗りの椅子とテーブル。
最初は、オープンカフェなのだろうか、と思った。

けれど、看板に書かれていた事は予想外だった。


(´・ω・`)(ハンバーガーショップ?)


アメリカナイズされたデザインの文字と絵。
それは紛れもなくハンバーガーの店であることを示していた。
僕は面食らってしまい、ちょっとだけ動揺する。

そんな僕の様子を気にせず、彼女はメールを送ってきた。


(*゚ー゚)『さあ、注文しましょう』



80: 「秋」 :2007/08/25(土) 23:54:25.08 ID:Li1DZ2py0
僕は彼女に唆され、奥のカウンターに向かった。
何をどうすればよいのか分からない僕は、彼女に全てを任せることにした。

しぃは手際よくオーダーを済ませる。
その姿さえも美しかった。


出来上がりをその場で待ち、その間を利用してメールを打った。

(´・ω・`)『何か、予想外でした。
      女性ですから、お洒落な店に行くものだと思ってましたよ』

(*゚ー゚)『すみません。私、そういったお店に行った事がないんです。
    でもですね、ここのハンバーガー、凄く美味しいんですよ?』

(;´・ω・`)『はぁ、そうでしたか』

浮き浮きとした様子でハンバーガーの完成を待つしぃ。
僕はその隣で、彼女の言葉を信じながら立ち続けていた。



84: 「秋」 :2007/08/25(土) 23:56:54.72 ID:Li1DZ2py0
やがて店員がトレイに乗せたハンバーガーとドリンクを持って来た。

よく見る紙に包まれたそれではなく、皿の上に乗せられたハンバーグとパンズ。
焼き立てであることが立ち上る湯気と、手に伝わる熱から判断出来た。

僕達はそのトレイを運んで、空が見える席についた。

(´・ω・`)『じゃあ、いただきます』

(*゚ー゚)『どうぞ召し上がれ』

斜め掛けされたパンズをボリューム満点の具の上に置き、
下に置かれた物と合わせてぎゅっと挟む。
ソースが少しこぼれ、ポテトの盛られた皿の上に落ちた。


勢いだけでは食べ切れないようなそれを持ち、
僕は思い切りかぶり付いた。



89: 「秋」 :2007/08/25(土) 23:58:59.83 ID:Li1DZ2py0
(´・ω・`)(お、これは……!)


美味い。

一口でそれは分かった。
このハンバーガーは今まで食べてきたような物とは全く違う。


ジューシーな二枚のハンバーグは、軽く噛むだけで肉汁が噴き出してくる。

その肉汁と濃い目のソースが存分に染み渡ったパンズは、
抜群の焼き加減と相俟って、病み付きになりそうな美味しさだ。

カリッと焼かれたベーコンも堪らない。
あまり好きではなかったピクルスもいいアクセントになっていた。

そして、トッピングされたシャキシャキのレタスと瑞々しいトマトのスライスが、
ともすればしつこくなりがちな味なのに、口の中を爽快にしてくれる。


僕は夢中になって一口、また一口と貪るように食べた。



96: 「秋」 :2007/08/26(日) 00:01:01.97 ID:PA9lLIBU0
(*゚ー゚)「――――」

彼女は笑いながら僕の顔を見ている。
満足そうに、嬉々とした表情を作っている。


(´・ω・`)『いやいや、これは驚きました。
      本当に凄く美味しいですね。びっくりしました』

汚れた手を紙ナプキンで拭き、メールを打って感想を伝えると、
彼女はまた、得意気に笑うのだった。

(*゚ー゚)『気に入って頂けて良かったですw
    馬鹿にされるんじゃないかと、内心ひやひやものでしたよ』

(´・ω・`)『うーむ、御見逸れしました』

そう告げて、また一口かぶり付く。
何度食べても初めて体験した時のように美味い。
思わず笑顔になってしまう。

しぃはそんな僕を見て、嬉しそうに自分のハンバーガーを口にした。
その顔は、これまでと違いやはりあどけない少女のようで、
それもまた彼女らしさなのだろう、と僕は思った。



98: 「秋」 :2007/08/26(日) 00:03:00.53 ID:PA9lLIBU0
無言で手を合わせ、昼食を締め括る。

感謝の儀礼を終えると、テーブルの上に置いた携帯が振動した。
僕が気付かぬ隙に彼女はメールを打っていたらしい。


(*゚ー゚)『ごちそうさまです。
    普段は一人の事が多いので、久々の二人での食事は楽しかったです』

(´・ω・`)『ごちそうさま。僕も楽しかったですよ。
      今度は僕が食事に招待しましょう』

(*゚ー゚)『それじゃ意味が無いじゃないですかw』

(´・ω・`)『いやいや、楽しい事は多い方がいいでしょう?』

(*゚ー゚)『ふふふ、それもそうですねw
    では、楽しみにしていますね』


交わされる会話は和やかで、僕は一層胸が弾むのだった。



100: 「秋」 :2007/08/26(日) 00:05:09.86 ID:PA9lLIBU0
僕は食後のコーヒーを飲みながら目の前の情景を眺めた。


騒がしい都会から切り取られたような空間。
あの世界に入っていけなかった僕を、優しく受け入れてくれている。

行き交う人々の顔がよく見える。
安らかで、ゆっくりとした時間の流れ。
聴こえなくても、この場所を包む静けさは感じ取れた。


そして目を戻すと、僕の前にはしぃの笑い顔が在る。


秋空は天高い。
決してその頂上に手が届く事はない。

僕の気持ちも、同様に届く事はないのだろうか。

声に乗せてはっきりと伝えることが出来ない自分には無理だって、
そんな事は、分かり切っているはずなのに。



僕は恋に落ちてしまったようだ。



105: 「秋」 :2007/08/26(日) 00:07:11.76 ID:PA9lLIBU0
帰り道。

撫でるように吹く涼しげな秋風は、
この場所の平穏を飾り立てるアクセサリーとして、これ以上なく似付かわしかった。
隣でしぃは僕の心をくすぐるように笑っている。

長い僕の人生の中で、苦悩と葛藤はどこまでも付き纏ってくる。
それでも普通の人と同じ人生を送ろうと努めた。
学生時代は友達も多くて、大学にも行く事が出来た。
職業だってある。自立した生活も送れている。

だけど僕はやっぱり普通じゃないから、
世の中から一線を引かれているように感じずにはいられなかった。
ぱっと見充足した人生も、所詮は空っぽのおもちゃ箱みたいな物。
聾唖の自分は巡る世界から疎外されているんだ。

けれど、そんな僕にも一筋の光が差してきた。

彼女がこうして僕に合わせてくれる事の喜び。
何百カラットのダイヤモンドよりもキラリと輝いている。

僕の心にも風が吹いた。
まるで、包み込むように。



110: 「冬」 :2007/08/26(日) 00:08:49.32 ID:PA9lLIBU0
月日は瞬く間に過ぎていった。

カレンダーは最後の一枚しか残っていない。
そしてそのカレンダーも、あと一週間もすれば使い切ってしまう。


今日はクリスマス。


僕としぃは食事を通じて交流を深めた。
お互いに気に入った店を見つけてはメールで情報を交換し、
都合の合う日に二人で行って、その感想を述べ合ったりした。

そうして時間を共有しているうちに、
徐々にだけれど、言葉遣いもくだけた調子に変わっていった。
彼女は年上の僕に気を遣ってか、未だに「ですます」口調だったけど。

メル友から、友人ぐらいにはランクアップしたかな。

帰り際に手を振る度に、いつも僕はそんな事を考えるのだった。
考えて、どこか切ない気分になるのも、毎度の事だった。



112: 「冬」 :2007/08/26(日) 00:10:29.31 ID:PA9lLIBU0
思えば不思議な出会い方だった。

僕の耳が聴こえていたらこんな展開にはなっていなかっただろう。
奇跡的な偶然と書いて、奇遇。
それが今、僕に訪れているのだなと噛み締めるように実感した。


電車が駅に到着した。
冷たい外気に触れて身体が縮み上がる。
吐く息は白くなっていた。
僕は少し折り目の付いた切符を手に、改札を通り過ぎた。

腕時計をちらりと見ると、もう午後七時を回っていた。
電車から見た時には気にしなかったが、辺りは相当暗くなっている。

夜空には星なんて無いけれど、
もっとそれ以上の何かが、爛々と輝いているような気がする。

僕は急いだ。
いつものように、あの大きな木へと。



117: 「冬」 :2007/08/26(日) 00:12:31.51 ID:PA9lLIBU0
冬の夜は寒い。
この街では尚更だ。
実際の気温以上に凍えるような、そんな空気が蔓延している。
この地で自分だけの暖かい場所を見つけるのは困難な事だ。

葉がすっかり散り、枯れ木となってしまった樹木の下に彼女はいた。

厚手のコートを纏っている。その下からはドレスがちらりと見えている。
僕は片手を上げて駆け寄り、息切れを我慢しながらメールを打ち込んだ。

(´・ω・`)『ごめんよ、ちょっと遅くなった』

(*゚ー゚)『もー、ちゃんとして下さいよー。
    今日はショボンさんが奢りの日なんですからね!』

(´・ω・`)『いやあ、悪い悪い』

軽い談笑。
この待ち合わせた時のちょっとした会話が、僕は好きだった。



123: 「冬」 :2007/08/26(日) 00:14:27.71 ID:PA9lLIBU0
クリスマスだと言うのに恋人もいない僕達は、
お互いを慰め合うと言う名目で、この聖なる夜に食事の約束をしたのだ。
自分でもよく彼女がOKしてくれたものだと思う。


でも、僕は彼女に嘘を吐いていた。
本当の目的は、そんな事なんかじゃない。


駅へと続く道を戻り、駅前の大通りに向けて歩いた。
横断歩道を渡る事にはまだ抵抗がある。
恐怖なのか緊張なのか、直前で足が竦んでしまう。
耳の悪い僕が信じられる情報は目で捉えられるものしかないからだ。

そんな臆病な自分を悟られないよう、
僕は前を向き、背筋を伸ばしてアスファルトに描かれたストライプを横切った。



130: 「冬」 :2007/08/26(日) 00:16:56.04 ID:PA9lLIBU0
交差点を渡り切り、ほっと息を漏らす。
目に映るものしか信用出来ない僕にはいつまでたっても鬼門だ。

逆に言えば、僕は見えるもの全てを信じてしまいがちになってしまっている。

この巨大な街に、自分は本当に存在しているのか。
普通の人なら自分が街を見る事が出来るから、
自分も街に住む他者の目に映っている筈だと、当然の事のように考えるだろう。

何を馬鹿な事を、と思うかもしれないが、
僕は時々、世間が自分を求めていないのではないかと不安になってしまう。
仮に求める声があったとしても、僕には聴こえない。

どんな群衆よりも孤独な存在。
それが僕と言う人間だ。


けど今なら確証が持てる。
彼女からのメールが僕へと繋がっているのだから。



137: 「冬」 :2007/08/26(日) 00:19:08.97 ID:PA9lLIBU0
大通りに着いてすぐ、対向車線側の道路沿いにある高層ビル。
何階建てなのかすら全く見当がつかない
僕達はそんな摩天楼へと若干緊張しながら入っていった。


真夏に受け取ったチラシ。

僕はそれをレターボックスの中に保管していた。
たくさんの文字で埋め尽くされた裏面ばかりが目に付くが、
表に書かれた内容を見返して、ふと案が頭に浮かんだ。

いつか行こうと決めていたレストラン。

僕はクリスマスに彼女を誘って行こうと計画し、十月頃から予約を取った。
夏にきっかけを貰い、秋に準備し、冬に実行する。
その道筋は彼女のメールと僕の心境の変化と共にあった。

今日の為にスーツも新調した。
イタリア製の格好良い濃紺のフォーマルウェア。
少々高くついたが、後悔はこれっぽっちもしていない。



142: 「冬」 :2007/08/26(日) 00:21:31.35 ID:PA9lLIBU0
何十階もの距離を一気に駆け上がっていくエレベーター。
数分経ってようやく到着し、建物の中に構えたレストランに足を踏み入れた。

喋れない僕の代わりに、しぃが入店の際の応対をこなした。
初めて来た店の筈なのに、やけに堂々とした振る舞いを見せる。
まあ、僕も初めてなのだが。

店員に案内され夜景が展望出来る席に座った。
星の代わりには成り得ないが、眩いばかりの電光が夜を彩っている。

彼女はコートを脱ぎ、照れながらドレス姿をお披露目する。
美しい。そうとしか言い様がない。
その事を褒めるのが何だか恥ずかしくて、ついつい目を逸らしてしまった。

僕はすぐさま携帯を取り出し、話題を変えようと文章を打った。

(´・ω・`)『綺麗な夜景だね』

(*゚ー゚)『本当ですね。こんなに綺麗な景色は初めて見ましたよ』

いつの間にやら、僕達がメールを打つ速度は驚異的なレベルに達していた。
高貴な雰囲気を醸し出している紳士淑女は、奇怪な二人組に目を丸くしていた。



145: 「冬」 :2007/08/26(日) 00:23:55.69 ID:PA9lLIBU0
出された料理はどれも豪華で、
それでいて、僕のような庶民の舌にも合う美味しさだった。

肉料理が運ばれてきたところで、
九十年代の、手頃な価格の赤ワインを一本頼んだ。
とは言えあくまでこの店における「手頃」であり、十分に高価な品だ。

しぃは少し僕の懐事情を心配したが、無理して笑ってみせた。

あまりに赤過ぎて、黒と呼んだほうが相応しい程の真紅の液体。
僕は彼女のグラスにも注いであげ、食事の途中だけども乾杯をした。

芳醇な香りが漂ってくる。

一口飲むと、じんわりとした甘味と苦味が同時に舌の上に広がった。
そうした要素の全てが複雑に混ざり合い、深く豊かな味わいを構築している。
しかも癖も少なく、濃厚なジュースのように気軽に飲めた。



148: 「冬」 :2007/08/26(日) 00:25:53.33 ID:PA9lLIBU0
僕は夜景を見ていた。

子羊の肉のソテーを包む、甘酸っぱい煮詰めた林檎のソース。
二つの食材はお互いを高め合うように調和を保っている。
そんな、常に成長段階にあり続ける料理を口に運ぶ彼女の姿がガラスに映り、
それが目に入って、僕は二度三度胸を叩き自らを奮い立たせる。

言え、言うんだ。
いや、言う事は出来ない。
文字に託して、真っすぐに届けるんだ。

僕は携帯のキーを押す。
一晩懸けて考えた告白の言葉。
震える指で、それを丁寧に丁寧に打ち込んでいく。

出来上がった文を見返して、何故だか恥ずかしくなりながらも、
確認を済ませ、送信のキーを押そうとする。


なのに、どうしてもその作業が出来ない。


あと一押しを躊躇してしまう。
横断歩道を渡る時のような、表現し難い怯えが僕を襲っている。



152: 「冬」 :2007/08/26(日) 00:28:03.15 ID:PA9lLIBU0
最後の料理が運ばれてきた。
僕はそれに見向きもせず、じっと携帯の画面を見つめていた。


これさえ押してしまえばいい。
胸がすくような思いを感じる事が出来る。
これまでゆっくりと親密さを深めてきた。
きっと上手くいく筈なんだ。

誰かの囃し立てる声が欲しい。
だが、仮にあったとしても、当然僕には聴こえない。


そうやって躊躇っていると、
画面が切り替わり、メールの受信を報せる映像が流れた。

僕は何を思ったか作成した文書を破棄し、送られてきたメールを開いた。


(*゚ー゚)『私、手話を一つだけ覚えたんです。
    もし良かったら、見て貰えませんか?』



157: 「冬」 :2007/08/26(日) 00:29:11.95 ID:PA9lLIBU0
僕は返信を打つ代わりに、
ただ一度だけ、目を戻してコクリと頷いた。


彼女は右手の親指と人差し指を自分の喉に当てる。
そしてそれを撮むように、すっと前に突き出した。


僕はその手話の意味を覚えていた。


子供の頃から耳が悪くて、そのハンディを補う為に学んだ手話。
けれども、それは如何なる言葉よりも不完全な言語だと思っていた。
伝わるのはごく限られた人達にだけだと、分かっていたから。

だけど今、それは僕に伝わった。
彼女の眼差しと共に、どんな気取った言葉なんかよりずっと素敵に伝わった。



(*゚ー゚)『 す き で す 』



168: 「冬」 :2007/08/26(日) 00:31:08.22 ID:PA9lLIBU0
彼女のはにかむ笑顔。
ほんのりと赤くなった頬。
お酒のせいではない事ぐらい、僕でも理解出来る。

僕はふっと笑みを漏らした。
あんなに悩んでいたことが馬鹿らしく思えて、つい笑ってしまったのだ。
笑って、涙が零れそうになる。

この手に握っていた切符は片道ではなかった。

僕は携帯を閉じて、しぃの瞳を見つめる。
返事を今すぐ伝えたかったから、
彼女の手を取って、その小さな手の平に指で文字をなぞった。


(´・ω・`)『 ぼ く も 』


そう書いて、僕はしぃの手を握った。



174: 「冬」 :2007/08/26(日) 00:32:46.06 ID:PA9lLIBU0
思いを伝える台詞なんて、いくら着飾ったとしても、
短くても素直な言葉には遠く及ばないんだ。

僕はもう一度夜景を見下ろした。
色とりどりの光が僕を祝福するように煌めいている。
「百万ドルの夜景」とはまさにこの事なのだろう。

そして目を彼女に戻した。
彼女は優しい微笑みを見せて、ぎゅっと僕の手を握り返す。
外の景色を装飾する光よりも眩しいその笑顔。
百万ドル、いや、
世界中のお金を全て集めても、この笑顔は手に入れることは出来ない。

握り締めた彼女の手から、温もりが絶えず伝わってくる。
僕の凍っていた心は、今ここで溶け始めている。

この街で一番暖かい場所。
僕はようやく見つけられた気がした。



181: 「冬」 :2007/08/26(日) 00:34:47.73 ID:PA9lLIBU0
夕食を済ませ、僕達は店を出た後。
僕達は二人、手を繋いでネオンの光に包まれた街中を歩いた。

外は冷える。冬真っ最中である事を身に沁みて思い知らされる。
緩やかな足取りで進んでいった。

向かっているのはホテル。

下心からか一応予約しておいて良かったなどと告げると、
彼女は寒さで赤らんだ顔を更に真っ赤にして、僕の肩を叩くのだった。

その顔が堪らなく愛おしい。

歩行中、いつも打っていたメールによる雑談は行わなかった。
肩を寄せて見詰め合う。
それだけで気持ちを届けられたから。

あんなに緊張した横断歩道も、
横にしぃがいてくれるから、もう怖くはなかった。



189: 「冬」 :2007/08/26(日) 00:36:59.72 ID:PA9lLIBU0
ホテルの一室に入る。
交互にシャワーを浴びてベッドに腰掛ける。
明かりを全部消して、とたっての要求があり、僕はそれを受け入れた。
その際に残念そうな顔をすると、彼女はまた顔を赤くした。

二人揃って意を決し、行為に及ぶ。

最初はキス、それから段々と胸、腰、陰部へと手を伸ばす。
蛇が這うように、舌で首筋の甘い汗を舐め取る。
少しずつ頭を下げていき、汗とは違う粘度のある液体にも舌を這わせる。

彼女の嬌声や喘ぐ声は聴く事が出来ない。
直接に感じ取れるのは切なげな表情と溺れるような快楽のみだ。

それだけで十分。

言葉は要らない。
その白い肌に触れさえすれば、
しぃと、僕の存在をはっきりと確かめられる。

世界は今、僕達だけの為に回っているかのようにさえ感じられた。



197: 「冬」 :2007/08/26(日) 00:39:08.86 ID:PA9lLIBU0
愛に満ちたセックスを終えると、僕達は目を閉じた。
肩を抱いて、手を握り合ったまま。

僕は彼女の顔を見た。
少しだけ涙の跡が付いた顔にキスをする。
嬉しそうな笑顔を見るだけで、その気持ちがひしひしと伝わってきた。


時間を共有する事は、喜びも共有する事。
僕としぃは全く同じ感情で、互いを求め合っていた。
そう、確信出来た。


彼女が完全に寝静まった後、僕は身を起こして窓から外を見た。
都会では珍しい白雪が舞っている。
雪は何百、何千もの光を浴びて、輝きを放ちながら降り注いでいる。

僕は枕元に置いた携帯を手に、その光景をカメラ機能で撮影し、
『ホワイトクリスマスだったんだね』と、写真を添えて彼女の携帯に送った。


目覚める頃には届くだろう。僕からのクリスマスプレゼントが。



207: 「夏」 :2007/08/26(日) 00:41:11.64 ID:PA9lLIBU0
僕としぃが付き合い始めて半年以上の時間が過ぎた。

季節は巡り、また夏が来た。
思えば、彼女と出会ったのはこの季節。
こんなにも早い一年を過ごしたのは生まれて初めてだ。


僕は街を歩いていた。

この街には相変わらず息苦しさしか覚えない。
実際の広さ以上に大きく感じて、圧迫されてしまう。

猛暑日の気温も相俟って、
コンクリートで囲まれているにも拘らず、あたかも砂漠のようだ。
砂漠を走る旅人は、都会に住む全ての人々。
彼らは生きる事だけに精一杯で、早回しのビデオを見ているようだった。

そんな土地でも、僕だけのオアシスは存在している。



210: 「夏」 :2007/08/26(日) 00:43:03.71 ID:PA9lLIBU0
ある日、僕はしぃに質問した事がある。


(´・ω・`)『「好き」って、どんな響きの言葉なのかな?』


困らせてしまうような、無茶な質問だなと自分自身でも思った。
けど、僕はずっと気になっていた。
耳にする事が出来ない自分の気持ち。
こんなくだらない質問にも、彼女は真剣に答えてくれた。


(*゚ー゚)『上手く説明出来ませんけど、凄く、綺麗な響きの言葉ですよ。
    文字で伝えられるだけでこんなに嬉しいんですから、
    そんな言葉の響きが、綺麗じゃない筈がないでしょう?』


そう教えて貰った時、
僕は心の底から納得して、それからは彼女に想いを素直に伝える事にした。



217: 「夏」 :2007/08/26(日) 00:45:10.79 ID:PA9lLIBU0
途中でポケットに手を突っ込んだ。
中にある硬いそれを取り出し、再認するように中身を見る。

光を屈折させて輝く石。
その石が填められた銀色の輪を手にして、何度も汚れていないかチェックする。

彼女に渡そうと思っていた指輪。

恐らくは人生で一番高い買い物だろう。
いや、買えない物を手にする為には、安過ぎる買い物とも言える。

出会ってからたったの一年しか経っていないけれど、
僕は今日、プロポーズをしようと思っていた。

駆け足過ぎるかも知れない。
もっとじっくりと愛を深めていくべきなのは十分に分かっている。
だけども、僕は自分の感情を抑えられなかった。

僕は彼女に夢中になっていた。



224: 「夏」 :2007/08/26(日) 00:47:52.34 ID:PA9lLIBU0
待ち合わせの木の下に急ぐ。

駅前の通りに植えられた桜の木は、もう花が散ってしまって葉桜になっている。
その姿もまた趣き深い。

澄み渡った青空は、ビルとビルの隙間からしか見えない。
余計な物も多いけれど、それでもやはり美しい景色を目にする事が出来る。

この街は僕を受け入れてはくれないけれど、
一握りの安息の場所があるから、やはり嫌いにはなれなかった。

交差点が迫っていた。
長い横断歩道。僕はいつもドキドキしながら渡っていた。
でも、しぃと交際し出してからはそんな恐怖は薄らいでいる。



潜んでいる危険は、何も変わっていないのに。



237: 「夏」 :2007/08/26(日) 00:49:34.63 ID:PA9lLIBU0
耳が使えない代わりに、目を引っ切り無しに配っていた横断歩道。
慎重に、慎重に細心の注意を払っていた。
いつ車が来るか、前を見ているだけでは音で判断出来ないからだ。


僕は夢中になり過ぎていた。
世界はもう一つあったと、はしゃぎ過ぎていたとも言える。


信号が青なのをおざなりに確認すると、何気ない気分で道路に足を踏み出した。


会いたい、早く会いたい。


注意をする事も、何もかも忘れてしまって。

神様に与えられた大切な情報源である両目は前方しか見据えていないで。


渡ろうとしているのは、実は自分だけで。


僕は視野まで狭めてしまっている事に気が付けなかった。



251: 「夏」 :2007/08/26(日) 00:51:29.73 ID:PA9lLIBU0
想像を絶する衝撃。


信号を無視して突っ込んできた車が、歩く僕を勢い良く撥ねた。
目の前の世界が、今度はビデオのスローモーションを見ているかのようになる。

一瞬の事過ぎて訳が分からなかった。

目に映る全てがゆっくりになって見える。
人々の青ざめた顔が、この期に及んでよく見える。

静かで穏やかな僕の世界に悲鳴なんて聴こえてない。

段々と視界が白んでいく。
痛みは感じない。
恐らくは、脳がそれを受け入れていないせいだろう。

現実なのだろうか、それとも夢なのだろうか。
考えても考えても区別は付かない。
何一つ、証拠となる音が存在していないのだから。


宙に舞う捩じれた身体が地面に叩きつけられたところで、
僕の意識は、ぷつりと途絶えた。



262: 「?」 :2007/08/26(日) 00:53:17.39 ID:PA9lLIBU0

ここは、どこなのだろう。

もしかして、どこでもないのだろうか。


確証はないが、目を閉じてはいない。
それなのに、何故か漆黒の闇が広がっていた。

懸命に記憶を辿り、何があったのかを思い出そうとする。

答えを探せば探す程涙が流れそうになる。
それは、どうしてだろう。


幾つか記憶を引っ張り出して、一つの結論に辿り着いた。

僕は事故で死んだんだ。



271: 「?」 :2007/08/26(日) 00:55:12.65 ID:PA9lLIBU0
僕は泣きたくなった。
同時に、笑いたくなった。
クリスマスの日とは違う意味で、そうしたくなった

こんなにあっけなく死ぬだなんて。
生きる目的が見つかった途端に、死んでしまうだなんて。

情けなくて、悔しくて、悲しくて。
自嘲と自責と自愛を筆頭に、様々な感情が入り組んで、
僕を訳の分からない気持ちにさせていた。

泣きたい、笑いたい、やり場の無い怒りを露にしたい。
でも、どういう事かそれは出来なかった。

理由を考える。
だが、そうしようとするだけで解答を見つける事が出来た。
頭を抱えようと脳から命令を送っても、呼応して動く腕が無い。

今の自分は意識しか存在していないのだ。



278: 「?」 :2007/08/26(日) 00:57:20.11 ID:PA9lLIBU0
(´・ω・`)(何だここは……死後の世界か?)

意識しかない事を理解すると、今度は考察をする。
自分が死んだのか生きているのかも分からない。
だとしたら、これは果たして何の現象なのだろうか。

(´・ω・`)(夢だったのか……? いや、僕は確かに事故に遭って……)

それは間違いのない事だ。
痛みは覚えていないが、あの光景は瞼の裏に焼き付いている。

(´・ω・`)(意識不明になって、長い夢を見させられているのかも知れないな)

あれも違う、これも違うと堂々巡りをしていると、
突如として、聞こえない筈の声が聞こえた。
正式には、意識の中にその声が流れ込んできた。



( ^ω^)ノ『おいすー』

(;´・ω・`)『うわぁぁぁぁぁぁぁあああ!?』



292: 「?」 :2007/08/26(日) 01:00:12.02 ID:PA9lLIBU0
間抜けな声と共に、その主が暗闇から浮かび上がってきた。

人間、だろうか。
少なくとも僕ら人類と同じ外見をしている。


(;´・ω・`)『な、何だお前はっ!』

( ^ω^)『おまwwwwwwwそんなに焦るなおwwwwwwwww』

驚きを隠せない僕とは裏腹に、異様に明るい調子で笑う男。
ますます頭がこんがらがってしまう。

(;´・ω・`)『どこから来たんだ!? 答えろ!』

( ^ω^)『落ち着けお。どこからも何も、僕はお前の傍に最初からいたお。
      いんや、正しくはお前の中にだお』

(´・ω・`)『僕の中にだって?』



300: 「?」 :2007/08/26(日) 01:02:15.95 ID:PA9lLIBU0
( ^ω^)『そうだお。聞いて驚け、僕はお前に宿る言霊なんだお!』

ビシッ、と指を差しながら男は答えた。


(´・ω・`)『言霊って……言葉に宿っている精とやらか?』

( ^ω^)『その通りだお! 知識があって助かるお。
      説明の手間が省けてラッキーだおwwwwwっうぇwwwwwww』

(´・ω・`)『で、その言霊が何の用なんだ? ここはどこなんだ?
      僕は今どうなっているんだ? それと……』

( ^ω^)『質問を纏めてから言えお! 僕は三行しか把握出来ないお!
      僕は事故で植物状態になっているお前の意識そのものに話し掛けているんだお。
      言霊の実力舐めるなおwwwwwwwwww』

男の笑いは、何故かは知らないが不快には感じられない。
そもそもこれが実際に起きていることだとまだ認識していないからだろう。

信じたい、との気持ちがあったのは確かだが。



306: 「?」 :2007/08/26(日) 01:04:31.02 ID:PA9lLIBU0
(´・ω・`)『意識を失っている、と言う事は僕はまだ生きているのか』

( ^ω^)『流石は大卒、理解が早いお。
      正確には、意識が体から離れてしまっているんだお』

(´・ω・`)『本当だろうな? 夢とかじゃないだろうな?』

( ^ω^)『それはねーおwwwwwwwww
      証拠は無いけど、僕の言葉を信用しても大丈夫だお』

(´・ω・`)『そうか、良かった』

男からの返事を受け取ると、安堵して話を止めた。
虚言かも知れない。
でも、こうして思考を繰り広げることが出来る。
夢ではこうはいかない。非現実的だが、僕は男の話の全てを信じた。

だが、男はまだ僕に用事があったようで、
何やら捲し立てるように叫んだ。


(#^ω^)『全然良くないお! 僕の話はまだ終わっちゃいないお!』



309: 「?」 :2007/08/26(日) 01:06:36.46 ID:PA9lLIBU0
(´・ω・`)『何だ、まだ何か言う事があるのか』

(#^ω^)『ありありだお!心して 聞けお!』

男が言葉を紡いでいく。


(#^ω^)『僕は言霊としての役目を全うするためにお前に宿っているんだお。

      ところがお前は耳が不自由で、話す事が出来なかったんだお!
      結局一度も言葉に乗って自分の力を発揮出来なかったお!

      そのせいで、僕は言霊として落ちこぼれになってしまったんだお!』


(´・ω・`)『成程。つまり、言霊のニートと言う訳か』

(#^ω^)『うるさいお! 表現が的確過ぎて何も言えないお!』

(´・ω・`)『すまない』



316: 「?」 :2007/08/26(日) 01:08:41.59 ID:PA9lLIBU0
冗談を言ったはいいが、僕はこの言霊とやらに罪悪感を感じてしまった。
僕はこんなところでも迷惑を掛けてしまっていたのか。
最後の『すまない』は、二重の意味を込めて言ってみたつもりだ。


( ^ω^)『ともかくだお。このままお前の意識が戻らなかったら、
      僕は永遠に言霊としての力を使うことなくあの世に行ってしまうんだお』

(´・ω・`)『そうなのか……すまないな、宿主が僕なんかで』

( ^ω^)『謝るなお。お前がちゃんと回復しさえすればまだチャンスはあるんだお。
      とは言え、このまま意識が戻ったとしても意味がないお。
      お前が発する事が出来る言葉が一つも無いからだお』

(´・ω・`)『確かにそうだな。目が覚めたからといって、耳まで良くなったりはしない……』

深層で考え込む僕をよそに、
男は『感謝しろ!』とばかりに意識の中に語り掛けてきた。

( ^ω^)『そこでだお、僕は今のうちにお前にプレゼントをしてやるお!
      お前が知りたい言葉の響きを、五文字だけ教えてやるお!』



325: 「?」 :2007/08/26(日) 01:10:49.28 ID:PA9lLIBU0
(´・ω・`)『どう言う事だ?』

探りを入れるように男に尋ねる。

(´・ω・`)『知ったところで、その言葉をすぐにでも声にすることは出来ないだろう』

( ^ω^)『それはお前の努力次第で何とかしろお!
      誰かに聞いて貰いながらでいいから、練習して発音出来るようになれお!』

男は怒鳴りつける。


誰かに聞いて貰いながら、か。
僕にとって、その相手となる人物は一人しかいない。


男の誘いに僕は興味を惹かれた。
いや、惹かれたどころではない。
願っても無い好機だ。

ただ気になることが少しばかりある。
男がそうしてまで僕に入れ込む理由は何なのだろうか。
僕はとりあえず、聞いてみる事にした。



329: 「?」 :2007/08/26(日) 01:12:41.64 ID:PA9lLIBU0
(´・ω・`)『そんな事をしてどうするんだ。お前のメリットがやたらと少ないぞ』

僕の質問に男は即答した。
おちゃらけた態度は変わらないが、強固なメッセージが届いてくる。

( ^ω^)『うっさいお。何でもいいから働かせて貰えればそれでいいお。
      僕はとにかく、何かをやり遂げてからあの世に行きたいんだお。
      何もしないで消えていくのは寂しい事なんだお』

(´・ω・`)『……そうか』

僕は男の言葉を何度も何度も反復する。

この男は僕に似ている。

言葉の節々から伝わる考えから自然とそう思えた。
僕に宿る言霊なのだから、当然と言えば当然か。



333: 「?」 :2007/08/26(日) 01:14:46.67 ID:PA9lLIBU0
( ^ω^)『さぁさぁ、理解したら早く何を知りたいか言えお!
      もう一度だけ言うけど、五文字だけだお!』

男がまるで照れ隠しをするかのように急き立てる。


(´・ω・`)『ちょっと、考えさせてくれないか』


僕は全てのひらがなを思い浮かべた。
五十音、いや、濁点半濁点も含めれば選択肢はかなり広い。


ここで、ある事に気が付いた。

既存の物を探ったって本当に必要な文字は見つからない。


自分が思いつく、大切だと言い切れる言葉を教えて貰おう。
合わせて、きっかり五文字となるように。



341: 「?」 :2007/08/26(日) 01:16:31.45 ID:PA9lLIBU0
僕は瞬時に思いついた。

それだけ自分の中で大事な言葉なのだろう。
選び抜いた文字を、男に念じて伝えた。


( ^ω^)『……本当にそれでいいのかお』

(´・ω・`)『ああ、問題ない。
      その五文字が、僕にとっては一番必要なんだ』

(;^ω^)『えーと、もうちょっと捻ったりしないのかお?
      組み替えると色んな言葉になる文字列とか、一杯あるお?』

(´・ω・`)『そんな余計な考えは必要ないさ。
      僕が響きを知りたい、声に出したい言葉はそれだけなんだ』

(#^ω^)『何か知らんけどムカツクお! 非童貞の余裕かお!』

(´・ω・`)『ぶち殺すぞ』



349: 「?」 :2007/08/26(日) 01:18:52.76 ID:PA9lLIBU0
( ^ω^)『まっ、お前がそれでいいのなら教えてやるお。
      僕としちゃ何でもいいんだお、うんうん』

男はそう言うと、僕の意識の中で望んだ文字が反響した。

初めて聴いた音。
思った通り、響きのいい言葉だ。
こんなにも言葉が綺麗だなんて、知らなかった。


( ^ω^)『一応言っておくけど、それは別に聴こえている訳ではないお。
      あくまで脳が響きを認識しているだけだお。その辺をちゃんと分かれお』

(´・ω・`)『分かってるさ。そのぐらいはね』

( ^ω^)『おk。だったら構わないお。
      それじゃ、僕はこの辺でさよならするお!
      と言っても、お前の中にいるんだけどwwwwwっうぇっうぇwwwwwww』

(;´・ω・`)『いるのかよ』

( ^ω^)『それが言霊の宿命ってやつだお!』



362: 「?」 :2007/08/26(日) 01:21:30.77 ID:PA9lLIBU0
男は僕に発声のアドバイスも教えた。
舌を使い方だとか、喉の震わせ方だとかを逐一説明する。
結局理解し切れなかったが、言い終えた男は何故か満足そうだった。


( ^ω^)『んじゃ、本当にお別れだお』


そう言い残して、男の顔は薄らいでいった。
その姿も見えているのではなく、僕が認識しているだけなのだろう。


( ^ω^)『言っとくけど、お前の意識が元に戻るかどうかなんて分からんおー!
      もし戻ったら、ちゃんと練習しておけお! 絶対だお!
      それまで僕は待ってるおー!』


男の言葉がフェードアウトするように消えていき、とうとう、聞こえなくなった。
初めから聞こえてなどいなかったけれど、僕達は声で会話していたように思えた。

僕はそんな意識の中でしか使えない言語で、男に最後の一言を添える。


(´・ω・`)『……ありがとう』


その言葉も奇遇な事に五文字だった。



375: 「?」 :2007/08/26(日) 01:23:44.66 ID:PA9lLIBU0
僕は意識の世界を漂った。
どこまでも続く暗黒の世界を、ただ漂っていた。

永遠とも呼べるその時間。

その間中、ずっと言霊に聞いた言葉の響きを繰り返していた。
何度思い返しても飽きる事は無い。

僕は意識が戻る事を願い続けた。
時々諦めそうになる事もあるけれど、
彼女の顔を思い出ぜば、そんな考えは吹き飛んでしまう。

彼女は僕が何時如何なる場面にあっても希望でいてくれる。
僕が勝手に思っているだけなのだが、それでも幾分か救われた。



しぃを思えば、僕は、いつまでも待ち続けられる。



385: 「春」 :2007/08/26(日) 01:26:04.94 ID:PA9lLIBU0
それはあまりにも突然であっけなかった。



一体どれほどの時間を待ったのだろうか。

意識があるのに動けない、と言った状況に身を置く事になった時、
人は孤独と極度の精神疲労で発狂しそうになると聞いている。

僕にそんな現象は起こらなかった。

この場合、少し違った状況だからかも知れない。
彼女がいつも傍にいてくれているように思えたから、
僕は一人ではないと強く信じる事が出来たからだと思う。

少なくとも、意識が戻るまでの間僕は一度たりとも狂ったりはしなかった。



僕は病室のベッドで、目を覚ました。



399: 「春」 :2007/08/26(日) 01:28:35.97 ID:PA9lLIBU0
瞳に入ってくる久しぶりの景色は、清潔な白い天井だった。


上体を起こそうとする。
無理だろうと思えたが、それは可能だった。
動いても痛みは無い。
どうやら怪我の方は完全に治っているようだ。


いの一番に鼻を突いたのは刺さった点滴の臭いだった。
いかにも「薬」といった感じの科学的な臭い。
幼い頃よく嗅いだ病院の空気を思わせて、少々苦手な感触だ。


舌の上に伝わってきたのは粘ついた僕の唾だった。
いつも感じていた筈なのに、違和感を覚えてしまった。



そして目覚めて最初に感じた物は。


僕の手を握る、
傷だらけの指輪がはめられた、しぃの両手の温もりだった。



411: 「春」 :2007/08/26(日) 01:31:07.10 ID:PA9lLIBU0
(*;ー;)「――――――!!!!」


彼女の泣き顔に、僕は気が付いた。
熱い涙が頬を伝わっている。
目の下にはクマが出来ていて、あまり寝ていない事が分かった。
僕が長い間心配をかけてしまったせいだろう。

何かを声に出しているようだけれど、僕にその言葉を聴く事は出来ない。
だけど、不思議と伝わってくるような気がした。

(*;ー;)『――――――!!』

彼女が抱き寄ってくる。
息と、涙と、体温の熱を全身で感じる。


僕はそこでやっと霞がかった意識がはっきりとした。
気付けば、僕も涙を零していた。



423: 「春」 :2007/08/26(日) 01:33:43.45 ID:PA9lLIBU0
泣いたのはいつ以来だろうか。
今が西暦何年かも知らないのだから、尚更の事分からない。


(´;ω;`)『…………!』


僕は戻ってきたんだ。
しぃのいる世界へと。
嬉しさのあまり他の事を考える事が出来ない。
涙が止まる様子は、欠片も無い。

声を出そうとする。
出せない。当然だ、僕は聾唖者なのだから。

けれど、僕はあの暗い精神世界の中で知る事が出来た。

伝えよう。

ぶっつけ本番だから、きっと上手くは発音出来ない。
それでも構わないから、精一杯伝えようとしよう。



437: 「春」 :2007/08/26(日) 01:36:06.47 ID:PA9lLIBU0
(´;ω;`)「……うぅ……うぁぁ……」

ただでさえ涙で声が詰まっているのに、
生涯で初めて何かを声にしようとしているのだから、言葉になる筈が無い。
きっと呻くような音にしかなっていないのだろう。

実際の事は、分からない。

(´;ω;`)「ぁ……い、び、あああ……」

でも、でもだ。

伝えようとする意思があれば、きっと彼女に伝わる筈だ。
この世界に存在する言葉にはならなくても、
二人だけの世界で通じる言葉にはなる筈なんだ。



443: 「春」 :2007/08/26(日) 01:37:22.18 ID:PA9lLIBU0
(´;ω;`)「ひぃ…う、ぐぃあ……」

届いてくれ。

(´;ω;`)「ずぎば……ずいあ……ふぃ……」

この、大切な言葉よ。

(´;ω;`)(お願いだ……! 声になってくれ…・…!)


舌、喉、唇。
僕は教わった通りに動かした。

複雑な舌の動き。
様々な声帯の振動。
曖昧な唇の開閉。


全てが彼女にメッセージを送るために連動している。
発音出来ているのかどうか、それはやはり、分からない。



452: 「春」 :2007/08/26(日) 01:39:25.84 ID:PA9lLIBU0
僕が言おうとする、五文字の言葉。
簡単で、だけど正直で。
何よりも、ずっとずっと美しい言葉だ。



しぃ、すきだ。



それ以上の言葉なんて見つからない。

世界で一番美しいこの言葉。
彼女の名前と、彼女を想う僕の気持ち。

僕の最愛の人の名前、『しぃ』。

愛情とか、友情とか、慕情とかでもない。
ただ、純粋に『好きだ』と想う気持ち。

メールで幾度と無く打った、どんな物よりも綺麗な響きの言葉。
声に出したい。出して、伝えたい。



465: 「春」 :2007/08/26(日) 01:41:34.72 ID:PA9lLIBU0
(´;ω;`)「あぁ……がぁ……」


何度も何度も繰り返して、最後の一息を振り絞り声を出した。
恐らく、正解の発音を発することは出来なかっただろう。
頭の中に浮かぶイメージを表現するのは、僕にはまだ早過ぎた。

(*;ー;)「――――――!!」

しぃは握る手を決して放しはしなかった。
声にならない声を聞いて、怖がったりなんかしなかった。
僕の言葉を、聞いてくれた。

そっと彼女が僕の手を開く。
そして、あの日僕がしたように指で文字をなぞった



(*;ー;)『 わ た し も 』



475: 「春」 :2007/08/26(日) 01:43:50.05 ID:PA9lLIBU0
(´;ω;`)「うぅ……うぅ……!」

すすり泣く声が漏れる。

それがどんな音なのかは想像が付かない。
僕は何も考えられなくなった頭で何とか考える。

答えは見つからない。
それでも良かった。

僕達にはどうでも良い事だったから。


(*;ー;)「――――――!!」

(´;ω;`)「…………!」


僕はしぃを、衰えて細くなった腕で抱き締めた。
この腕では彼女を守る事など叶わない。
だからゆっくりとでいいから、二人の愛と共に大きくしていこうと誓った。



483: 「それから」 :2007/08/26(日) 01:45:50.08 ID:PA9lLIBU0
後で聞いたところによると、
僕は事故があったあの日から四年以上もの間眠り続けていたらしい。

彼女は『青春を返して!』などといたずらっぽく僕を責めた。
冗談なのは分かっていたけど、僕はそれに全力で応えなくてはならない。


季節は移り変わっていく。
街の姿もどんどん変貌していく。

都会の人ごみの中には、一度しか見たことの無い顔もたくさんいる。
むしろ殆どで、それは仕方の無い事だ。
現代という時代はアクセルしか用意されていない車のようなものだ。


そんな流れる時の中で。
僕達は緩やかに、一歩ずつ歩いていこうと決めた。



496: 「それから」 :2007/08/26(日) 01:48:12.48 ID:PA9lLIBU0
大変な事もあったけれど、僕と彼女の会話には何ら変化なく、
顔を見合わせて携帯を持ち、メールで話をする一連の流れはそのままでいた。


手話を覚えようかと彼女が申し出た事もある。

けど、僕はそれを勧めはしなかった。
僕達にはメールを打つ方が合っていると思ったからだ。

そう告げると、しぃは笑って、
『それもそうですね』と返信を送ってきたのだった。


今も、これから先も二人でメールを交換する。
絵文字も顔文字も使わない。
だって、言葉よりも相手に届く記号なんて存在しないだろうから。



507: 「それから」 :2007/08/26(日) 01:50:41.76 ID:PA9lLIBU0

(*゚ー゚)『ねぇ、もう一回言ってくれません?』

(;´・ω・`)『ええ、またかい?』

(*゚ー゚)『いいじゃないですかw
    折角あれだけ練習に付き合ったんですから、もっと一杯聞きたいです!』

(´・ω・`)『やれやれ、仕方ないな。これで最後だよ』



「しぃ、好きだ」


僕は言葉を並び替える。


「大好きだ」






                 「(´・ω・`)はメールを打つようです」   おしまい



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