( ^ω^)ブーンたちは漂流したようです

3: ◆xh7i0CWaMo :2008/06/08(日) 22:32:12.16 ID:HkEVV2Yc0
第十一話「素晴らしき世界」

無機質に覆われているかのように静寂な地下空間で、未だ二人の人間と一体の生きた怪物、
そして無数の怪物の死体が混在している。
沈黙してしまった生きた怪物から少し距離を置いたところで、
クーは残った右腕を顎に当てて何やら考え込んでいる。
ドクオは彼らの丁度中間あたりで狼狽し、意味もなく徘徊したりしている。

<○>「疲れたなあ」

怪物が、心底疲弊したというような声色で呟いた。
喋り疲れたという意図では、おそらく無いだろう。

亡くなった自分の同胞たちを全てこの地下空間に運び込んだこと、
その過程における仲間の死。そして、最終的に降りかかってくる、ただただ孤独であるという虚脱感。
それら全てが、怪物を――かつて人間を蹂躙して支配下におき、
生物界の頂点に君臨した高等知能生物を疲労させたのだろう。

怪物の白濁した眼球がぎょろ、と動き、クーを見遣る。
そして咳き込むような笑い声をあげた。

<○>「そういやあお前たち、どうやってここに来たんだ?」

だがクーは沈黙し続けている。彼女は、おそらくはあえて無視しているのだろう。
そこに僅かな反骨精神が見て取れるような気がした。



5: ◆xh7i0CWaMo :2008/06/08(日) 22:35:12.54 ID:HkEVV2Yc0
怪物は彼女から聞き出すのを諦め、ドクオに視線を移した。
彼は歯をガチガチ鳴らしながら答える。

('A`)「じじ、じ、地震、地震が、で、地面がくく、崩れ、て」

<○>「そうかあ」

怪物には納得するところがあるらしい。

<○>「やっぱり、随分と老朽化していたんだなあ。
     いや何ねえ。そろそろ境界面とか殻の修繕はしないといけなかったんだよお。
     結局出来ずじまいだったけどなあ。あれは、ちゃんとしておかないと、
     おれ達も、ヒトも困る事になっちまうものだったんだ」

境界面なる単語が、ドクオの言う「地面」と一致する事は間違いないであろう。
死期を悟り、遺言を宣うかのように、怪物は饒舌な語りを見せる。
気のせいか、その声量、迫力が徐々に落ち込んでいるように、ドクオには思えた。

<○>「最期に、ヒトと出会う事になるとはなあ。
     こいつは、何かの報いなんだろうかな。なぁ、そっちのメ……女のヒト」

川 ゚ -゚)「……」

<○>「あんたはどうやら、何もかも思い出しちまったようだなあ。
     おれたちのことも、ヒトのことも、歴史も……ペットだから、な。
     昔は、本当に申し訳ない事をしたと思う。
     でもな、おれたちの祖先にも……プライドがあったんだ。
     この星、いや、この世界……その頂点に立つ者としての、些末なプライドがなあ。
     その結果として、ヒトを虐げ、屠るような結果になっちまった。
     所詮おれたちも、無知だったんだ」



7: ◆xh7i0CWaMo :2008/06/08(日) 22:37:40.25 ID:HkEVV2Yc0
仮にもそれは無知と呼べるのだろうか。
ドクオは、半ば泣きそうになりながら自嘲していく。
そもそも人間だって全知全能では無かったのだ。

その本来はただ子孫を後世に残していけばそれでよい。
それが何やら、生半可な知能を身に備えてしまったから、
他の生物に影響を及ぼすまでに発展してしまったのである。

怪物にとってしてみれば、人間を殺す事など、
アリを踏み潰す程度の所作でしかなかったのかも知れない。
彼らは、この殻世界を構成するほどに卓越した頭脳の持ち主であるのだから。
だが、そんな彼らでさえ、完全ではなかったのだ。

川 ゚ -゚)「今更、どうにかなることではあるまい」

ようやくクーが口を開いた。

<○>「……」

彼女は、ドクオを押しのけて怪物の間近にまで歩み寄る。
そして、不思議そうに彼女を追う怪物の目を見据え、瞭然と言い放った。

川 ゚ -゚)「教えろ、お前の殺し方を」

怪物の目が一瞬だけ見開かれ、そしてまた咳き込むように笑った。



11: ◆xh7i0CWaMo :2008/06/08(日) 22:39:30.90 ID:HkEVV2Yc0
<○>「おれを殺しても、怨恨は晴れないんじゃないかあ?」

川 ゚ -゚)「それでも、腹の足しにはなるだろう。まさか、死を恐れているのか?」

<○>「とんでもない。放っておいても壊れる命さあ」

怪物は無数の脚を折り曲げ、丁度前屈みになるような姿勢をとる。
そして、反り返った尾の先端にある太く鋭い針で、背中のこぶを示した。

<○>「この目を潰せばいい。おれたちの身体はヒトより遙かに頑強だけど、
     ここだけが唯一の弱点なんだな。だからこそ、ここの病気は致命的なんだ。
     物理的な攻撃は、目蓋を下ろせばそれで済むんだけどな」

ドクオはぼんやり立ち尽くして眺めている。クーを止める気には、なるはずもなかった。
全体像は把握できないが、彼女にはこの怪物を殺す動機や権利が十分にあるようだし、
怪物も自らが殺される事をすでに受け入れている。
彼は邪魔にならないよう、一歩身を引いた。

川 ゚ -゚)「ふむ、そうなのか。初めて知ったよ」

クーはそう言い眼球に向かって、先程腐敗して落ちた左腕を右腕で突き出した。
彼女はそれを、力一杯怪物の眼球に突き刺すつもりらしかった。

川 ゚ -゚)「知識を持つ怪物は、これで滅亡するわけだな」

その口調には、復讐を果たす喜び以上に、どこか恍惚めいた快感を含んでいるようでさえあった。



13: ◆xh7i0CWaMo :2008/06/08(日) 22:41:05.04 ID:HkEVV2Yc0
<○>「いやあ、まだ、完全に滅亡したとは言えないんじゃないかなあ。
     上にもおれたちの仲間はいるからなあ」

川 ゚ -゚)「上に?」

<○>「ああ。基本的にはヒトの監視、そして下の世界と連絡を取り合うって職務を担ってるんだ」

川 ゚ -゚)「そいつは、ここに降りてきていないのか」

<○>「あいつは変わり者だったからなあ。
     彼が住む管理スペースは一応居住できるだけの空間に整えられているんだ。
     だから、余程のことが無い限りあいつがあそこから出てくることは無かったな」

引き籠もりか。ドクオは瞬間、状況も忘れて虚ろな笑みを浮かべた。

<○>「そもそもあいつは、人間に異常なまでの関心を抱いていたからなあ。
     ……こちらの連絡係が死に絶えたから戻ってくるだろうとも考えたが、
     結局帰ってこなかったなあ」

川 ゚ -゚)「見捨てたみたいだな」

<○>「ううん、そうかもしれないなあ。あまり騒ぎに関わりを持ちたくない性格だったから」

川 ゚ -゚)「しかし、お前は何でもよく知っている」

クーがある種の期待を込め、皮肉めいた口調で言う。
怪物は一瞬話す事を躊躇するような仕草を見せたが、すぐに白状した。

<○>「ああ。俺は、この世界の管理に属していたからなあ。お前たちのことも、
     歴史も……それこそ、一般大衆には教えられないような歴史もよく知っているよお」



15: ◆xh7i0CWaMo :2008/06/08(日) 22:42:58.97 ID:HkEVV2Yc0
途端に、クーが笑った。狂ったように笑った。
いや、実際彼女は些か狂っているのかも知れなかった。
それは、彼女が左腕を落とした時の反応からしても明らかではなかったか。
大体、狂っているからこそここまで生きているのかもしれないのだ。

ひとしきり笑い声を響かせたところで、彼女は不意にピタリと口を噤んだ。
しばらくの静謐の後に、彼女はぼそりと呟いた。

川 ゚ -゚)「それは、素晴らしいな。お前を殺す価値が上がる」

ごふ、と怪物は痰がからんだような音を鳴らして呼吸した。
ドクオにとっては、怪物が如何様な表情をつくっているのか定かではない。
だが怪物が今、非常に複雑に表情筋らしきものを歪ませているように感じた。

クーが更に一歩怪物に歩み寄った。これでもう、両者の間にはほとんど距離が介在しない。

川 ゚ -゚)「もう、ほざくことは無いか」

<○>「もう……無いなあ」

クーは怪物に左腕を向ける。怪物の背中にある眼は、
その断面を穴が開くほどに凝視し続けている。時間が止まり、やがてクーは言う。

川 ゚ -゚)「せいぜい苦しめよ」

そして、彼女は勢いよく、左腕を怪物の、拳大ほどもある眼球に突き刺した。



17: ◆xh7i0CWaMo :2008/06/08(日) 22:45:03.22 ID:HkEVV2Yc0
重低音の咆吼が轟いた。それと同時に、怪物が脚を一斉に躍動させてのたうち回る。
左腕の突き刺さった眼球からは、白濁とした液体が緑と紫の鱗を伝い、
止め処なく床にこぼれ落ちていく。

あれは、ともすれば怪物の涙なのだろうか。分からない。
だが、その暴れようからして、落涙して余りあるほどの苦痛であることは間違いなさそうである。

クーは、怪物の断末魔を瞬きもしない様子で見つめ続けていた。
まるで一秒でも長く、その憐れな姿を焼き付けようとするかのように、
彼女は決して視線をそらそうとはしない。

その叫喚は一分ほども続いただろうか。けたたましく脚をばたつかせ、
ついには横臥し尾を四方に振り回しながら怪物はもがき続け、そのうち、静やかに動きを止めた。
脚と尾がだらりと垂れ下がり、前部の双眸が閉じる。
ドクオも、おそらくクーも、その時になってようやく、怪物の苦悶と死を確信した。

川 ゚ -゚)「残虐だと思うか」

クーが口角を吊り上げてドクオに問うた。
未だ、その幻のような情景から抜け出せないドクオは、彼女の質問に答える事が出来ない。

彼女の、残っていた右腕さえも今や彼女の身体を離れて、地面に落ちていた。
衝破の反動で、ちぎれてしまったらしい。



18: ◆xh7i0CWaMo :2008/06/08(日) 22:47:16.86 ID:HkEVV2Yc0
川 ゚ -゚)「……昔の話だ」

怪物の死体の前にぺたんと座り込んで、クーは回顧する。

川 ゚ -゚)「怪物共に追われた人間たちは、少数のグループを構成し、辺境で生きる事を決意した。
     その頃にはもう、奴らに都市部はおろか、
     ほとんどの居住地を奪われてしまっていたからな。
     最新の兵器も奴らには無力だったと聞く。物資と土地と矜恃を失った人間は、
     ほとんど原始人のような暮らしを余儀なくされたんだ」

彼女は淡々と物語を綴っていく。まるで自分とは関係のない事と主張するように、
そうしなければ自己が崩壊してしまうのではないかと恐れているかのように。

川 ゚ -゚)「それでも、怪物は時々襲いかかってきた。
     私たちの住処を探索し、執拗に殺戮、仲間の培養をするんだ。
     中には狩猟のように楽しんでいる者もいたかもしれない。
     『いただきます』などと自己満足な規律に従って、
     人間の額に針を刺した者もいたかもしれない」

今クーに腕があれば、彼女はおそらく拳を地面に叩きつけていただろうなと、ドクオは思った。

川 ゚ -゚)「その度に人間はせっかく生活できるようにできた住居を捨てて、
     さらなる辺境を行かなければならなくなる。
     そのうちに精神が壊れるのは、ある種当然だったんだろうな」

彼女の視線が虚ろに彷徨う。



22: ◆xh7i0CWaMo :2008/06/08(日) 22:49:38.78 ID:HkEVV2Yc0
川 ゚ -゚)「私は、生まれながらにして娼婦であり、盾だった」

ドクオは吃驚して彼女を、見つめた。

川 ゚ -゚)「逃亡しているうち、怪物が襲いかかってこなくなったらしい。
     それまでに何十年、もしや百年以上経過していたのかもしれないが。
     そうしてようやく、人間――少なくとも私の所属していたグループは、
     安住の地を手に入れる事が出来た。だが、その時にはすでに遅かったんだな。
     長年の逃亡と、絶望で、狂人と化していた。そんな中に私は生まれたんだ」

膝を折り、クーは体育座りのような姿勢をする。その前に怪物の死体は聳えている。
眼球からの液体の漏出は止まっていた。

川 ゚ -゚)「最初は皆優しかった。私が幼かったからな。
     その時に私は多くのことを教えてもらった。今喋っている内容も、だ。
     そしてようやく一人前になったころ、私は一人の男にあてがわれた」

しばらくの沈黙。二人がほぼ同時に溜息をついた。クーが話を続ける。

川 ゚ -゚)「その男は、どうやら居住地の警備をしているらしかった。
     だが、最早あの男にはそんな能力は備わっていなかっただろうと思う。
     きちがいの眼をしていた。
     私はそこに、彼を守る役目を担って赴いた。しかしそんなもの、
     怪物がほとんど襲ってこないと分かっているあの時となっては、建前でしかなかったよ。
     奴と同居し始めた最初の夜、私は、当然のようにして犯された」

耳を塞ごうと、ドクオは手を動かした。だがその手は、すんでの所で止まってしまった。
クーに見咎められるのも、逃避しようとしている自分自身も恐ろしかった。



24: ◆xh7i0CWaMo :2008/06/08(日) 22:51:27.14 ID:HkEVV2Yc0
川 ゚ -゚)「そんな暮らしが、どれぐらい続いただろうな。
     最初、私は男を、ともすればグループの人間全員を憎んでいた。
     騙されたとさえ思っていたんだ。だが、そのうちに憎悪の感情は消えていったな。
     おそらくは、自分の中で割り切れたんだと思う。これはこういうものなんだと」

歪んだ苦笑を浮かべた。

川 ゚ -゚)「まぁもっとも、そうやって割り切る事が出来るあたり、
     私自身もまた、狂っていたんだろうがな」

クーが立ち上がろうとする。しかし手が無いので、
上手く上体を持ち上げる事ができないようだった。
彼女を支えようとドクオが駆け寄るが、一瞬触れていいものかどうかと躊躇する。
だが、クーはいとも容易くドクオに身を委ねたので、
ドクオは悔恨の念を覚えながら彼女を立ち上がらせた。

川 ゚ -゚)「そうしているうち、再び怪物がやってきた。
     だが、今度は彼ら、襲いかかってこなかった。それどころか人語で宣ったんだ。
     『貴方たちを助けに来ました』と。
     奴らは途轍もなく巨大な飛行機械に乗ってやって来ていた。
     たった百数十年のうちに、奴らは人間が何千年もかけて辿り着いた、
     科学の極致を越えたんだ。おそらく、人間が変貌した姿だから、なのだろうが。
     それに気付いた瞬間に、私たちは奴らへの抵抗の意志をほとんど失っていた。



26: ◆xh7i0CWaMo :2008/06/08(日) 22:53:11.16 ID:HkEVV2Yc0
川 ゚ -゚)「そうして連れてこられたのがあの世界だ。
     そこで人間は手術を受けた。さっきあいつが言っていたことだ。
     感情のほとんどを排し、高等知能生物ではなく、あくまで子孫を残すための存在として、
     生かす。それが奴らなりの保護方法だったんだ。
     そこで問題になったのが、私の処遇だった。
     その頃にはもう、人間として認められていなかった、私の」

ドクオにはすでに結末が読めている。だからといって喚く事も出来ず、
彼は泣くように笑うばかりだ。

川 ゚ -゚)「私……というよりは娼婦という存在が最早習慣化していた。
     だから怪物共も、それを完全に排除する事は難しいと考えたんだろう。
     そこで、ペットというシステムがつくられた。
     私を含め、複数の人間の遺伝子が彼らによって改竄され、
     人間にもっとも従順で、知能もあまり持たないような傀儡へと『改良』されたんだ」

('A`)「……」

川 ゚ -゚)「だが、それにも欠陥があったらしい。ここからは私の推測でしかないが、
     私たちペットの知能や記憶は、誕生していくらかの期間を過ぎると、
     徐々に蘇ってしまうんだ。だから、彼らは寿命を設けた。そして人間に植え付けた。
     一定期間を過ぎたペットを、廃棄するように。
     まぁ生憎私の場合は、先に飼い主が死んでしまった。
     それからしばらくは、曖昧な知能と記憶しかなかったが、悲しむべきか、
     今となってはこのように、何もかも思い出してしまっているよ」



28: ◆xh7i0CWaMo :2008/06/08(日) 22:55:19.72 ID:HkEVV2Yc0
彼女はそこで話を終える。ドクオは彼女の台詞の一字一句を、ほとんど余さず、
記憶の中に刻みつけてしまっていた。

('A`)「わ、わから、わからない」

川 ゚ -゚)「ん?」

('A`)「ああ、あんたが虐げられてきたのは、むしろ、むしろ人間から、じゃ、ないか。
    なのに、何で今、あんなに憎んで、憎んでか、怪物を殺した……?」

クーがまた笑みを浮かべた。だが、さっきとは打って変わった、朗らかな笑みだった。
「さあ、そこだ」クーはドクオの方を向いて、言う。

川 ゚ -゚)「お前の言うとおりだ。私が、私個人が憎むべきは怪物じゃあないだろう。
     むしろ私を娼婦としてしか扱わなかった人間達だ。
     ……最早私にも分からない。私がどうして奴を憎み、殺したのか。
     もうどうしようも無いんだからな」

ははは。はははははははは。はは。あはははは。
乾いた嬌声が空間を満たしていく。

川 ゚ -゚)「教えてくれ、今、私は何故ここまで饒舌なんだ?
     奴と同じように、死期を悟っているのか? 私はそれを知っているのか?
     奴を殺したのは私の本能か復讐心なのか? ならば私は人間なのか?
     何故こんな世界が出来た? 人生とは、もっと美しく素晴らしいものじゃないのか?
     両腕が無くなってしまったぞ、それほど痛まないのは何故なんだ?」

あはははははははは。あは。あはははははははは。はははは。

―――――――――――――――



30: ◆xh7i0CWaMo :2008/06/08(日) 22:57:29.27 ID:HkEVV2Yc0
ブーンは居住ビルの最上階で、ギリギリと歯軋りをした。
その場所からは、大小様々な怪物の動く姿がある程度眺望できる。
幸い、このビルに上ってくる気配はない。彼らは、集団でどこかに移動しようとしているらしかった。
その方向を見、考えた上でブーンは愕然とする。彼らはどうやら、
以前モララーが言っていた「崩れかかっている場所」を目的地として歩いているようなのだ。

ブーンの中にあった目論見が崩れた。
ともすれば、地下空間に逃げ込む事が出来るのではないかと考えていたのだ。
だが、あれほどの大移動をするということは、当然何らかの目的があると思われる。
それが、地下をも侵略するという事である可能性は、非常に高いのではないだろうか。

ならば別の方策を見いださなければならない。
今となってはおそらく、彼らが移動してきた方向へと逃げるのが得策であろう。
では、そちら側には何か安全地帯があるのか。熟考するだけの時間は、
どうやら残存していそうなので、ブーンは知恵を振り絞る。

意外と早く、答えを弾き出す事が出来た。数日前、ハインと共に見つけた鉄扉。
図書館にある、隠された謎の鉄扉である。あれはあの時、確かに閉じられていた。
だが、もう一度確認するだけの価値はあるのではないだろうか。
というよりはむしろ、あそこ以外に状況を打破出来るようなところなど、
一つも思い浮かばないのである。

ハインは大丈夫だろうか。だがそれは、考えてどうにかなる問題ではない。
今は、大丈夫であると、信じるほか無いのだ。
彼女は、自分よりも数段頭が切れるような気がする。ならば。おそらくは。

しぃはブーンに寄り縋るようにして腕に抱きついている。
ブーンの行動理念は最早、彼女を守る事に基盤を置くしかなくなってしまっていた。



33: ◆xh7i0CWaMo :2008/06/08(日) 22:59:11.24 ID:HkEVV2Yc0
( ^ω^)「行くお、しぃ」

小さく声をかけ、ブーンは先程上ってきた階段を下り始めた。
怪物が出現する心配はほとんど無いが、それでも慎重に慎重を重ねなければならない。

街路に出ると、辺りは静まりかえっていた。当然と言えば当然であろう。
怪物はもう遠くの方へ去ってしまっている。仮に人間がいたところで、
危機管理能力に著しく欠けている彼らの事だ、餌食になっているに違いない。
そして餌食になった人間は、その表皮を破り、怪物へと姿を変貌させるのだ。
先程、病院で見た脱皮の瞬間が走馬燈のように脳内を駆け、ブーンの背中に怖気が走った。

(*゚ー゚)「だいじょぶ、だいじょぶ……」

怯えたような声でしぃは、何度も何度も呟いている。ブーンを励まそうとしていると同時に、
自分自身をも安心させようとしているのだろう。
彼女は、どうやらブーンより遙かに怪物の恐怖を知っているらしかった。

( ^ω^)「しぃはどうして、あいつらのことを知ってるんだお?」

尋ねた直後に、ブーンはある種の後悔に駆られた。
この質問をすることは本当に正しかっただろうか。この質問は、何か益をもたらすのだろうか。
しかししぃは、曖昧に首を振るばかりであった。

(*゚ー゚)「わかんない。けほ。オトナに言われた。それだけしかわかんないよ。ごめんね」

申し訳なさそうなしぃの表情に、ブーンは安堵せざるをえなかった。



36: ◆xh7i0CWaMo :2008/06/08(日) 23:01:18.30 ID:HkEVV2Yc0
ブーンの推論は的中し、道中で怪物と遭遇する事は皆無であった。
だが、その代わりに幾つもの人間の残骸――抜け殻と出くわした。
それらはまるで、丸められた巨大なビニール袋のように皺だらけで薄っぺらく、
原形を予想することはほとんど不可能な様相である。
だがそのおかげで、ブーンはあまりショックを受けずに先へ先へと進められた。

途中、何度か辺りを見渡してハインの姿を見つけようとするが、無意味だった。
もしかしたら、今通り過ぎたばかりの抜け殻がハインの成れの果てかもしれないというような、
負の思考が、のべつブーンにまとわりついていた。

ようやく辿り着いた図書館は、外観からしてブーンの知る数日前のそれとは、
全く豹変してしまっていた。自動ドアは倒されて粉々になっており、
入り口はぽっかりと穴が開いたようになってしまっている。
怪物がここを襲撃した事は疑いようのない事実であった。

だが、今その怪物の気配や物音は中の方から聞こえてこない。
ブーンはじっくり耳をすませた後、しぃを先導して足を踏み入れた。

内観は、なお一層酷く破壊されていた。
至る所で本棚が積み重なるようにして倒れており、
床には足の踏み場もないほどに本が散乱している。
中には何か強い力で圧迫されたように、カバーがひしゃげてしまっているものもあって、
おそらくそれは怪物が通った痕跡なのだろう。

そして、件の鉄扉は開放されたままになっている。



39: ◆xh7i0CWaMo :2008/06/08(日) 23:03:31.49 ID:HkEVV2Yc0
いざというところで、ブーンは躊躇した。
もしかしたら、鉄扉の向こうへと怪物が侵入しているのかも知れない。
だが、だからといって後戻りなど出来ようはずもなかった。
ここで中に入るのを躊躇い拒んでも、外を徘徊して生き延びる術は無い。

ホールはその機能を失い、あまつさえ怪物がいつ戻ってくるやも分からない。
レートの知れぬギャンブルではあるが、彼らは前に進む以外無いのだ。
そんな風に言えば、少しポジティブな印象を与えるのかも知れない。
だが現実はそうではなく、むしろ限りなく後ろ向きであるような趣さえある。

しぃの手を引き、ブーンは暗澹たる空間の中へと身を投じていく。
そこそこ幅広い通路にはまず階段が下の方へとのびている。
暗くはあるが、完全に視界が閉ざされてしまうと言うほどの闇ではなく、
外と同様に空間自体がぼんやりと光っているようだ。

階段が終わると、今度は先が見えない程に遠く長く伸びる、一本の通路が現れた。

生物的な要素を一つも見合わせない、
無機質な足音はブーンに、まるで深く荒んだ海底を歩いているかのような錯覚を与えた。

歩行しているうち、ブーンは自分がしぃに全く話しかける事が出来なくなってしまっている事に気付く。
恐怖しているのだろうか。ブーンは考える。しぃが如何なる解答を示すのか、
今となってはもう何も分からなくなってしまっている。
どのような会話が、彼女からブーンが知りたくもない殺伐とした情報をもたらす引き金になるか、
一切不明なのだ。

だからといって、恐怖していい理由にはならない。
しぃを励まさねばならない。慰めてやらねばならない。
ともすれば、そういった自意識過剰な使命感は、
自分がしぃを見下している証拠であるのかも知れないとさえ、ブーンに思わせた。



40: ◆xh7i0CWaMo :2008/06/08(日) 23:05:25.24 ID:HkEVV2Yc0
思考に深く沈んでいたブーンの足下が、不意にぐにゃりを曲がりくねった。
転びそうになって、慌てて体勢を持ち直す。
見下ろすと、そこに柔らかい、何かの塊が存在していた。
それが誰かの抜け殻であるということに気付くまでに、さほどの時間はかからなかった。

悲鳴を漏らしそうになるのを、すんでの所で何とかおさえこむ。
しぃが強くブーンの腕にしがみついた。

ここで誰かが殺されたのだ。更に不安感が増幅する。
この先に、怪物がいるのではないか。そして彼らは、見境も無く自分やしぃを殺すのではないか。
ブーンは懊悩する。肩越しに振り返ってみるが、
もう図書館の光が見える場所では無くなってしまっていた。

今、まさにこの瞬間にも怪物が背後から迫ってきているとしたら――

( ゜ω゜)「急ぐお!」

ブーンは叫び、しぃをつれて早足で進み出した。それはすぐに駆け足へと変わる。
為体の知れぬ焦燥、恐怖、不安定さ、あらゆるものを包含した感情がブーンを追い立てていた。

それから数分ばかり二人が走り続けたところで、ようやく通路の終着点が見えてくる。
図書館と通路を繋ぐそれと同じような形状の鉄扉だ。
ブーンは更に足を速める。息づかいが荒くなる。些末な疲労感は、すでに喪失してしまっている。

彼は猛然と取ってを引っ掴むと、叩きつけるようにして、スライド式のその扉を開いた。



42: ◆xh7i0CWaMo :2008/06/08(日) 23:07:05.57 ID:HkEVV2Yc0
そこは、それまでブーンが持っていた殻世界への印象を一変させるような空間であった。
目の前に、壁一面を覆う巨大なディスプレイが存在する。
それは多数に分割され、様々な映像を映し出している。
映像は全て、殻世界の現況のようであった。だが、未だ正常に表示しているのはごく僅かで、
ほとんどが砂嵐へと切り替わってしまっている。ある種の監視システムなのだろうか。

ディスプレイの下には多彩な機械類が存在している。
映画で見るような、宇宙船のコックピットを彷彿とさせる形態である。
そしてその前に、ソファを意図的に壊したような、いびつな椅子が一つ。

( ゜ω゜)「……」

ブーンは呆気に取られながら周囲を見回す。
右側には巨大な机が存在して、その上にこれもまた巨大なコーヒーカップが置かれていた。
その向こう側には、台所らしき空間が存在しているのだが、
そこに置かれている種々の機械、オブジェクトも規格外の大きさである。
とても、人間が使用するものとは思えなかった。

左を見ると、そちら側には廊下らしき通路がのびていて、
両側にいくつかの扉が設置されている。

そして今まさに、その内の一つの扉が静かに開かれ、
不気味な形状をした怪物が姿を現した。

―――――――――――――――



45: ◆xh7i0CWaMo :2008/06/08(日) 23:09:37.07 ID:HkEVV2Yc0
不意に地響きがして、ドクオは身をすくませた。
クーが笑うのをやめて、暗い眼を左右させる。刺々しい叫喚が聞こえる。

川 ゚ -゚)「ふん、怪物か」

事も無げにクーが言う。ドクオは激しくかぶりを振った。
クーの言説を否定しようとするのではなく、ただ現実を拒もうとしているのだ。
どういうことだ、怪物は滅んでしまったのではないか。
それとも、今し方死んだ彼が言っていた、上の世界に残されたそれであるのか。
だが、その割には怪物の咆吼、そして地響きが大きい……。

やがてその足音は接近してくる。
そして上階……止まったエスカレーターの向こう側から、複数の怪物が姿を見せた。
彼らはまだドクオとクーの存在に気付いていないらしい。

('A`)「う、あ。ああ……」

ドクオが腰を抜かして尻餅をつく。その醜態を、クーが嘲って見下ろしていた。

川 ゚ -゚)「どうした。死ぬのか?」

('A`)「うあ、で、だ。だって」

川 ゚ -゚)「これだけ怪物共の死体があるんだ。それなりに空間も広い。
     そこそこの間、隠れることはできるぞ」



46: ◆xh7i0CWaMo :2008/06/08(日) 23:11:16.64 ID:HkEVV2Yc0
ドクオは何とか立ち上がって、クーの後について地下空間の奥の方へと進んでいく。
両腕を失い、上手くバランスが取れないのか、彼女の足取りは危ういほど覚束ない。
どこまで進んでも無数の怪物の死体が整頓されて敷き詰められており、
確かにこの影に隠れることで、しばらくはやり過ごす事ができそうだ。

川 ゚ -゚)「まぁ、もう死んでも構わないのだが」

クーが、誰に向けるわけでもなく言った。

川 ゚ -゚)「怪物に殺されるのは、あまりにつまらないからな」

二人はとりあえず、一つの怪物の死体に身を隠した。
それと同時、エスカレーターを駆け下りてくる生きた怪物が計三体、視界に映り込んだ。
彼らは歩行しながら睨め付けるように並べられた、自分と同じ形状の怪物を眺め回している。
そしてまた、怒鳴るように叫喚した。

川 ゚ -゚)「あれが、知性を持たない怪物だ」

クーが身を隠し、首だけを突き出して怪物を観察しながら呟く。

('A`)「ち、ちせ、なんで、そんな奴らが、こ、ここ、ここに?」

川 ゚ -゚)「地震で殻が破壊されただろう。あそこから侵入してきたに違いない。
     ……それほどのこの殻に執着していたんだな。当然かも知れないが」

「いい気味だ」と、彼女は吐き捨てた。



48: ◆xh7i0CWaMo :2008/06/08(日) 23:13:16.34 ID:HkEVV2Yc0
そのうち、怪物のうちの一体が今まで以上に激しく唸り、尾を振り上げた。
そして、空中に掲げたそれを、死体に叩きつけたのである。
堅牢な鱗が剥がれ落ちて、赤黒い肉が剥き出しになった。

その攻撃を合図にするように、他の二匹も次々と自らの獲物を決めて、破壊行動を開始した。
手で死体の胴を掴み、尾を叩きつけて壊していく。
そうして完全に粉砕すると、彼らは勝利したように、陶酔した歓喜の声を湧かせるのだ。

クーは、その光景をスポーツ観戦しているような目つきで凝視している。
怪物たちの行動に如何なる意味があるのか、ドクオにはよく分からなかった。
だが、おそらくはクーの言った、「執着心」が関係しているのだろう。
彼らは嫉妬しているのかも知れなかった。
自分たちより更に先へと進んでしまった同胞に対して羨み、憎んでいるのだ。

一体を破壊した怪物は次の標的に視線を移す。
彼らはこの地下空間に置かれた死体、その全てを粉々にするつもりなのだろうか。
彼らの行動理念など知れるはずもない。何故なら、彼らには知能が存在しないのだから。

川 ゚ -゚)「これは、チャンスだな」

もう見飽きてしまったのか、クーはドクオの方を振り返った。

川 ゚ -゚)「今の内に地上へ上がろう。そうしなければ、どうにもならない」

怪物が全てを破壊するつもりならば、いずれ見つかってしまうことは自明である。



51: ◆xh7i0CWaMo :2008/06/08(日) 23:15:31.90 ID:HkEVV2Yc0
地上へと繋がる昇降場所を探さなければならなかった。
唯一判明しているのは例のエスカレーターであるが、
あの周辺には未だ怪物が陣取っていてあまりにも危険だ。

ならば、別のルートを模索せねばならない。
或いは、怪物たちが更に奥まった場所へ進入するのを待つという手段も考えられる。
だがそれはドクオにしてみれば、厳しい待機となることは明白であった。
今、怪物が目の前で破壊活動をしている頃おいに沈着冷静でなどいられるはずもない。

一方でドクオは、クーのたたずまいから、むしろ怪物たちの所作を愚かしいと、
嘲笑しているようなきらいを感じていた。
これもまた、矜恃や本能によるものなのだろうか。
知能のあるそれと違い、彼らに対しては易々と見下す事が出来るのだ。

川 ゚ -゚)「……ここからだと、あまり見通しが良くないな」

ドクオたち二人は、どうやら空間のほぼ中心に位置しているようだった。
四方の壁まで見渡す事が難しいのである。
どちらにせよ、このままとどまっていては怪物たちに発見されてしまうのであるから、
そうならないよう移動しなければならない。それも、できるだけ怪物が接近してこないうちに。

川 ゚ -゚)「とりあえず奴らから離れるように動こう。そうして四方を調べるんだ」

これだけ広いのであるから、昇降場所も数多く用意されているはず
――それはおそらく、二人にとっての共通見解であった。



52: ◆xh7i0CWaMo :2008/06/08(日) 23:17:44.08 ID:HkEVV2Yc0
クーが怪物たちに向かって後方へと歩き始める。
相変わらずおぼつかない足取りで、ドクオは彼女を支えるべきか悩んだ。
しかし、今彼女は一人でどうにか歩けているわけであり、
そんな時に補助を申し出れば咎められるのではないかと思い、結局何も言い出せなかった。

時々振り返り、怪物達に気付かれていないかを確認する。
幸い彼らは死体の破壊にばかり執着していて、それ以外の事は全く目に入らない様子だった。

一方の壁が見えてくる。そしてそこには、上へと続く幅広い階段も置かれていた。
ドクオは歓喜し、クーは息を深く吐いた。とりあえず、地上に上ることはできそうである。
階段の一段目に足を乗せたとき、突如クーの動きが停止した。何事かと、ドクオは彼女を見つめる。

川 ゚ -゚)「ふむ」

クーは自分の足に視線を落としていた。

川 ゚ -゚)「足も、傷んできたようだ」

('A`)「え……」

川 ゚ -゚)「寿命が、身体的影響を及ぼす事も、また確かだからな。こうしてどんどん壊れていく」

ドクオはようやく彼女の本心を悟っていた。
すなわち、彼女は自殺願望に似た感情をを抱いているのだ。
そのうえで、ただ本能と誇りを忠実に守って、怪物から殺される事だけを避けているのである。

ドクオの中に、同情心のようなものが湧出した。
しかし同時に、果たして自分にそんな感情を持つ余裕があるのかとも思っていた。



54: ◆xh7i0CWaMo :2008/06/08(日) 23:19:19.17 ID:HkEVV2Yc0
自分はどうなのだろう――ドクオは自問する。死にたいだろうか。
クーと怪物の口から絶望的な真実を知り、それでもまだ生きたいと願うのだろうか。

死んでも構わないのかも知れなかった。
惨めな身分にまで堕ち、奴隷じみた生活に身を沈めるならばむしろ、
美しく死ぬべきではないだろうか。

川 ゚ -゚)「行くぞ」

クーがそう言い、重たい足取りで一段一段、階段を上っていく。
ついて行きながらドクオは諦観する。とりあえず、今は逃げよう。
そしてそれから、本格的に死を考えるべきだ。クーがもしも自殺を選択するならば、
それに追従するのも悪くは無かろう。どうせ現実に戻ったって、
待っているのは母親の刃。それを避けたとしても退屈な日常しかない。

嗚呼、何故こんな下らない世界に生まれてしまったんだろうな。
こんなに下らなくて退屈でつまらなくて絶望的で歪んでて俺にはちっとも似合わない世界に。

ドクオはふと、壁を殴りつけたい衝動に襲われていた。

一階分の階段を上りきっただけでも、クーの息はすっかり上がっていた。

川 ゚ -゚)「ええ……出口は、こっち、か……」

記憶していた位置関係から算段したのだろう。
クーは、衣料品売り場であるそのフロアを、迷うことなく歩き始めた。



56: ◆xh7i0CWaMo :2008/06/08(日) 23:21:23.89 ID:HkEVV2Yc0
ドクオは安堵しきっていた。それはどこか麻薬の症状にも似ていて、
今までになく彼の足取りは軽く、浮き上がるようでさえあった。
出口が目前に迫っている。しかし次の瞬間、彼より一歩遅れていたクーが鋭く叫んだ。

川 ゚ -゚)「止まれ!」

ドクオは吃驚して肩を震わせ、立ち止まる。そして慌ててクーの方を振り返った。
彼女は茫然と立ち尽くしたまま、彼方を指差していた。その先を目で追う。

道路に面したガラス張りのショーウインドウの向こう側、そこに複数の怪物が群れを成していた。
そしてその中の一体が、こちらに向かって背中の眼球を向けたのである。

ヒィ、とドクオが喉を鳴らしたのと、怪物がショーウインドウに尾を突き立てたのはほぼ同時だった。
ガラスの割れる甲高い音が響き渡る。ドクオは無意識のうちに後ずさって、
後ろにあった移動式ハンガー・ラックに足を引っかけ、倒してしまった。

川 ゚ -゚)「逃げるぞ!」

クーが言い、もと来た方へと走り出す。だが、その走り方はやはりあまりにも頼りない。
ショーウインドウと内部の間のガラスも割られて、怪物が本格的に侵入してくる。
それは全身を震わせるような唸り声を轟かせ、尾を空高く掲げてこちらに向かい、接近してきた。

先程形成されたばかりの、ドクオの自己欺瞞にみちみちた感情の肉塊は、
呆気なく瓦解してしまった。

喉が裂けんばかりに絶叫し、ドクオは階段へ向かって駆けだした。



58: ◆xh7i0CWaMo :2008/06/08(日) 23:23:30.80 ID:HkEVV2Yc0
だが、その時にはもう、クーの体力は限界に達していた。
階段に辿り着いたはいいものの、彼女はもうほとんど自力で足を動かす事ができず、
故にドクオが彼女を補助し、支えてやらなければならない。
涙目になりながらドクオはクーを上へ、上へと運んでいく。

川 ゚ -゚)「すまないな」

クーが、老人のように力無い笑みをドクオに向ける。
だが、ドクオにはそれに応えるだけの余裕が全く無かった。
今はまだ怪物がさほど距離が狭まっていない。
視界に入らないからこそ、こうして悠長に人助けなどができるのだ。

大体、上へ進んでどうするのだ。道に怪物が犇めいている事はおそらく間違いない。
だからどうしようとこの建物からは出られない。

思考の意図が絡まり、ほどけなくなっていく。

川 ゚ -゚)「意外と優しいじゃないか、こんな状況でもなければ、きちんと礼をしたいところだ」

クーの、甘ったるい台詞さえ最早雑音でしかない。
自分はさっき自殺しようと意識を深層へ踏み込んだはずだ。
だがそんな意志は今や完全に崩壊している。

美意識、誇り、死への希望。そういった感性の一切が愚かしく感じられてならなかった。
死ぬ事で自分を美化。それが或いは歴史上、あるいは人格として正しいのだとしても、
自分にそれを遂行するのは不可能だとドクオは悟った。
ドクオという人物はどこまでも薄汚く、腐りきった存在なのだから。



59: ◆xh7i0CWaMo :2008/06/08(日) 23:25:13.80 ID:HkEVV2Yc0
それがどうしたというのだ。ドクオは笑い、消極的感情を一蹴する。
生きたいと思うのは当たり前の感情では無いか。そう思う事が罪なはずもない。

そうして三階と二階の間の踊り場まで到達して階下を見下ろしたとき、
二匹の怪物がようやく視界に入ってきた。顔面の表情筋が一斉にひしゃげ、
歪んでいくのをドクオは自覚した。クーは最早無表情である。諦観しているのかも知れない。

もしかしたら、彼女の内部では、「最期の瞬間に人の優しさに触れて……」などという、
あまりにも陳腐な物語が広がっているのかも知れなかった。

冗談じゃない。ドクオは心の中で、彼女を唾棄した。
実際のところ、それはドクオの独りよがりな思いこみでしかないのであるが、
最早彼には判断能力さえも失われてしまっているのだった。

冗談じゃない、どうしてこいつを助けたせいで諸共死ぬなんて、
キチガイじみた役を演じなければいけないんだ。
ここには誰もいない。いるのは、片輪の障害者だけだ。そしてこいつもそのうち死ぬ。
ならば、誰が俺のこうした素晴らしき振る舞いを後世に伝える?

先頭を行く怪物はすでに二階まで達していた。
このままでは二人とも捕らえられてしまう。ドクオは意を決した。

川 ゚ -゚)「共に死のうか」

クーが朗らかにそう言った瞬間、ドクオは彼女の腹部を蹴り飛ばし、二階の踊り場に叩き落とした。



63: ◆xh7i0CWaMo :2008/06/08(日) 23:27:18.58 ID:HkEVV2Yc0
クーの、愕然として見開かれた眼球と、一瞬視線が合った。
彼女は階段を、音を立てて滑り落ちていく。そして怪物の眼前に、
まるで生け贄として差し出されたかのように転がった。

両脚があらぬ方向に折れ曲がっている。転落の最中に骨折したか、
或いはちぎれてしまったのだろう。

彼女の末路を拝むことも無く、ドクオは再び猛然と階段を駆け上っていく。
肩の荷が下り、彼は今非常に心地よく感じていた。風を突っ切る感覚が、
ゾクゾクとした快感に変わっていくのである。クーを見捨てた罪悪感など、
微塵も思わない。むしろ彼は達成感を味わっているのだった。

しばらく上ってから階下を観察すると、追走する怪物が一匹に減っていた。
もう一匹は、今まさにクーを屠殺し、食らっているところなのだろう。
ドクオはほくそ笑んだ。ある程度の時間稼ぎにはなった。目論見通りである。

('A`)「いいぞ、いいぞ……よし、よおし」

白痴じみた表情で彼はさらに階段を上る。その時、彼はもはやその目的を失っていた。
今自分が、どこに向かって逃走しているのかを忘却してしまっていたのである。
それでもドクオは走り続ける。

彼の視界には、目の前で輝きを放つ金色の馬が映っていた。
空を飛び、楽園へと連れて行ってくれる使者だ。

('∀`)「楽園だ、楽園だ!」

彼は歓喜の声をあげ、なおも走る。



66: ◆xh7i0CWaMo :2008/06/08(日) 23:29:18.61 ID:HkEVV2Yc0
幾度目かの階段を上りきったところで、唐突に視界が開けた。
どうやら、屋上にたどり着いてしまったようである。

いくつかの、キャラクターを模したような遊具が設置されている。
廃れたミニ遊園地といった風体であろうか。どれもこれも錆び付いてしまっていて、
中にはコケのようなものが生えているオブジェさえ見受けられてしまう。

背後から、未だ足音が接近し続けている。
そして、その響きは確実に先程より増加していた。
つまり、ドクオを追う怪物が二体、或いはそれ以上になっているのだった。

だが、今のドクオにとってそれは、些末なことに過ぎなかった。
彼の眼前には未だ金色の馬が浮かんでいる。ドクオはそれに向かって、一目散に駆けていった。

('∀`)「解放されるんだ、僕は解放されるんだ!」

行き着いた先にカタルシスがあると、ドクオは深く思っていた。
この壊れた世界を旅立ち、美しく素晴らしい世界に行けると信じて疑わなかった。
なんて人生は素晴らしいんだろう。彼はもはや狂人だった。

現実、そこには落下防止用の柵があるのだが、
ドクオにはそれが、まさに出発点であるように錯視できたのだった。
金色の馬の嘶きが、彼の鼓膜を揺らした。

('∀`)「ああ、素晴らしいなあ! 人生はすっごく楽しいなあ!」

いつの間にか、五体にまで数を増やした怪物がすぐ傍にまで迫っていた。
その中には今生まれたばかりのような幼体も含まれていて、
それはもしかしたら今し方死んだばかりの、クーの生まれ変わりなのかも知れない。



69: ◆xh7i0CWaMo :2008/06/08(日) 23:31:26.90 ID:HkEVV2Yc0
ドクオは柵を乗り越え、デパートの端に立つ。
彼は金色の馬にまたがる。その瞬間、現実に於いて彼は足場を失い、落下を始めていた。
金色の馬は風を切り、走り出す。同時にドクオは風を切り、墜落していく。

('∀`)「ああ、素晴らしいなあ! すごいなあ!」

ドクオは幾度となく叫んだ。母親の笑顔が浮かんでくるくると彼の周りを回り始めた。
彼は今、幸せの絶頂に立っていた。

何もかもが美化されてドクオの意識下に登場する。殻世界で出会った少女。
共にここに漂流してきた三人。クー。皆笑っている。笑って、彼を祝福している。

('∀`)「ありがとう! みんな、ありがとう!」

彼が墜落していく先の道路には怪物が多数群がっている。
ドクオの姿を認め、落下してくるのを待ち望んでいる。
やがて、彼の意識は朦朧とし始めた。その迷妄を、彼は自分の中で夢見心地と定義づけていた。

('∀`)「ありがとおお!!」

そう叫喚した瞬間、彼の身体は地面に激突した。
瞬間的な激痛に正気を取り戻すこともなく、彼の意識と生命は、即座に消えて無くなった。

・・・

・・



第十一話 終わり



戻る第十二話第十二話(携帯用)