川 ゚ -゚)クーたちは想像上の生物のようです
- 3: ◆xh7i0CWaMo :2009/01/21(水) 21:34:17.60 ID:1tc0vRol0
- 第六話『从 ゚∀从ハインは天国を探すようです』
今ここにある全ての事物がどのようにして始まったのか、ハインは知らない。
そもそもあらゆる事物に対して何時を『始まり』と定義すれば良いのだろうか。
例えば、人間は何時始まるのだろうか。
ある一人の人間の始まりから終わりまでを記すとする。その場合、
その人間の始まりとは彼の両親が性交を行い精子が卵子に着床するところから描写すべきか、
或いは全て道徳的な人間がそうするであろうように、母親の性器より排出され、
産婆に抱え上げられた瞬間を始まりとすべきだろうか。
例えば、物語は何時始まるのだろうか。
ある世界観によるストーリーの始まりから終わりまでを思うとする。その場合、
その物語の始まりとはそのストーリーが語られ始めた瞬間、つまり小説であれば、
一段落目の一文字目、映画であれば最初のシーンの一秒目を思えばいいのか、
或いはその物語が語られる以前、ストーリーのキャラクターたちが歩んできたであろう、
歴史さえをも思うべきか。更にはその世界観の背景、文体や作者に対しても思うべきだろうか。
流浪するハインの思考の大半がそれら、衒学的な疑問に支配されていた。
意味は無いだろう。必要もないだろう。義務すらも、無いだろう。
しかしハインには同様に自由も無かった。
彼女はただただ上下左右も知れない不可思議な空間を流浪するだけの存在である。
いつからこうなったかをハインは覚えていない。
もしかしたら、生まれたときからハインは空間を流浪しているのかも知れなかった。
普段見る夢が突然明晰夢に切り替わったかのように。ハインは今になって初めて、
自分が空間を流浪するだけの不合理な存在だと自覚したのかもしれなかった。
- 4: ◆xh7i0CWaMo :2009/01/21(水) 21:37:37.66 ID:1tc0vRol0
- 空間は色で構成されている。
様々な彩色の塊がハインの周囲で軟体動物のように自在に姿態を変えて蠢いている。
手を伸ばしても、ハインはそれらに触れることが出来なかった。
全体は淡い光に包まれている。空間そのものが発光しているような、
そんな奇妙な光景だった。勿論そうした光の実体を掴むことも、ハインには叶わない。
この空間は一体なんだろうかとハインは考え始める。
この空間にはどのような意味づけがされていて、自分は何故この空間に放り込まれたのか。
それを知ったところでどうなるわけでもない。空間からの脱出を図れるわけでもないのだが、
それでも一旦は心の安寧を得られそうな気はする。
様々な可能性を考えはじめ、ハインはまず最も妥当な結論に行き着いた。
すなわち、これは夢ではないか。常識人は自分の身に降りかかった非現実的現実に対して、
しばしばこれは夢だという判断を下す。つまらない人間ならばその時、自分の頬を抓る。
夢であろう。夢であるならばそのうち覚めるだろう。ハインはそう思ってひとまず安心した。
明晰夢であるくせに、自分からは何も出来ないのが腹立たしいが。
だがそれでも、ハインはこの常ならぬ状態に一定の判断を下せたことに満足していた。
その時、ハインの周囲を漂っていた色の塊たちが不意に意思を持って動き出した。
それらは高速で空間を流れていき、ハインの周囲で形を変えていく。
目まぐるしく動くそれらをハインはただただ眺め続けた。
或る色は机の一部に、或る色は椅子の一部にとそれぞれ変貌を遂げていった。
気付けば、ハインは教室の椅子の上に座っていた。
- 12: ◆xh7i0CWaMo :2009/01/21(水) 21:43:12.03 ID:1tc0vRol0
- ( )「文字というものは実に不思議な存在でして、例えば映画などは、
実際に見ることの出来るオブジェクトやキャラクターと実際に耳にする音声によって、
構成されている非常に現実感の高い芸術であります。
テレビドラマもそう、マンガだって、描かれた絵をそのまま受容するという点で、
現実との接点をもっています。しかし挿絵の無い小説などは、不可思議なものです。
全てが文字で構成されていて、受ける側の人はそれをそのまま受容することは出来ません。
文字なんて、その意味を知っていなければただの記号でしか無いわけですからね。
例えば映画で林檎が出てきたとします。この時、鑑賞者の頭にインプットされる林檎は、
大抵同じものであると想像できます。実物が目の前にあるのと同じですからね。
でも小説では少し異なってくる。実物が目の前に置かれているわけではありませんから、
読者はそれぞれ独自の知識でもって脳内で一つの林檎をイメージしなければなりません。
そして脳内に構成される林檎は人によって違ってくるはずなのです。
例えば赤い、一つのまん丸な林檎をイメージする人がいるでしょう、しかし別の人は、
青い林檎を想像するかも知れない。その林檎に蔕と葉っぱがついているかどうかも、
人によって違ってくるはずです。大きさだって変わってくるでしょう。
それらまちまちのイメージを一つの林檎へ集束させようとするために、
筆者は形容詞を使用します。例えば、腐った赤い林檎、とかですね。
しかしこれだって怪しいものです。そもそもどの程度腐っているのかが分からない。
ただ黒ずんでいる林檎を想像する人もいれば、カビが生えている林檎を想像する人もいる。
まあ、無いとは思いますが、そもそも林檎というものを知らない人などは最初の時点で、
躓いてしまいます。いくら修飾語を付加しても、読者のイメージが一つに固まることなど、
有り得ないのです。このあたりが、小説のもつ不便であり、利便ですよね」
ハインは教室の中程に座って教壇に立つ教師らしい人物の話を聞いている。
言葉を発している教師には顔が無い。俗に言うのっぺらぼうというやつかもしれないが、
その人物には髪の毛さえなく、禿頭である。どこから音声を発しているのか定かではない。
更にその顔の輪郭は、古びたブラウン管テレビの映像のように、じらじらとぼやけていた。
生身の胴体にホログラムの頭部が乗っかっているかのような奇妙さである。
そしてそのような姿態をしているのは彼だけでなく、ハインの周囲にいる、
三十余名の生徒達も同様である。れっきとした人間の表情をしているのはハインだけであった。
- 14: ◆xh7i0CWaMo :2009/01/21(水) 21:46:25.96 ID:1tc0vRol0
- ここに至ってハインは初めて、自分自身の記憶が大方欠落していることを自覚した。
名前は分かる、ハインだ。少なくともそう呼ばれていた。職業が学生であることも認識している。
しかしそれ以外のことがほとんど思い出せない。してみれば、先程のっぺらぼうが喋っていた、
狂気的な饒舌は過去、実際に自分が体験したことなのかもしれない。
記憶には無いが、その可能性だって捨てきれるわけではないのだ。
もしくは、あの饒舌の主こそ、過去の自分自身であったのかもしれない。
夢において自分の姿を客観的に眺めるというようなことはままあることなのだ。
いつの間にか場面は変わっている。ハインは薄暗い六畳半の和室に立っていた。
壁にかかっている白いフクロウのアナログ時計が、秒針を高らかに鳴らしている。
床には腐ったコンビニ弁当の食べ残しや、ペットボトル割り箸ストローの類が散らばっている。
隅に置かれた黒いゴミ袋の群れの中で何かがゴソリと蠢いた。
息を吸うと噎せ返るほどの異臭が鼻腔へ侵入し、まるで現実のようだとハインに思わせる。
ピタリと閉められた襖の向こう側の隣室からは女の呟く声が聞こえてくる。
ハインは声の方へ近づき、襖にピタリと耳を当てた。
( )「……とうときおかたとうときおかた、あなたさまのともがらでありますわたしたちを
まもりたまえさきはえたまえ、まもりたまえさきはえたまえ。いやしのみちにあなたさまが
ありまして、そらのそらのなかにありましますゆめのゆめのこころをすくいたまえすくいたまえ
ごんげんしゃろうつうりきごんげんしゃろうつうりきごんげんしゃろうつうりき
ああかみさま、あなたさまのおかげでわたくしのひとりむすめはこのたびしんがくを
はたしましますますことができました、しかしながら、あなたさまは、あああなたさまは
むすめがいつつのときにこうおっしゃいました、むすめをころせ、むすめをころせと、
あなたはおっしゃいました、じゅうしちのたんじょうびまでにむすめをころせ、むすめをころせと
わたくしはそれをまもらねばなりませんわたくしはそれをまもらねばなりません、
ああかみさま、むすめはまもなく、そちらへまいります、そちらへまいります、
どうかあなたさまのいやしのちからで、まもりたまえさきはえたまえ、
まもりたまえさきはえたまえ、ごんげんしゃろうつうりきごんげんしゃろうつうりき」
- 16: ◆xh7i0CWaMo :2009/01/21(水) 21:49:27.58 ID:1tc0vRol0
- そのきちがいじみた弁舌に、ハインは聞き覚えがあった。そうだ、これはお母さんの声だ。
精神を患って宗教に溺れ、親族からも見放されたお母さんではないか。
お母さんに最後に会ったのは小学三年生の春のことだった。
あの時もお母さんは私を殺そうとしていた。髪を振り乱し包丁を構え、
ギラギラと輝く目で私を見つめ口の中で何かをもごもごと呟きつつ、眉を痙攣させながら
私を殺そうとしたのだった。神の言葉だと主張しながら、我が娘を刺し殺そうとしたのだった。
その時ハインを助けたのは父親の背中だった。彼は襲いかかる自分の妻から娘を、
身を挺して守ったのである。包丁は彼の肩に食い込んだ。それでも母親は諦めず、
今度は備え付けてあった消火器を使ってハインを撲殺しようとした。
呻く父親に背中を押され、ハインは必死に走った。走って走って走って、
近所に住んでいた父方の祖母の家まで走り抜いた。幸い、母親は追いかけてこなかった。
何があったと祖母に訊ねられてハインは何かしら、言葉になっていない獣じみた叫びを叫んだ。
母親と同じぐらい、その時ハインは狂っていた。
その後のことをハインはよく知らない。ハインは子どもだったから、周囲のオトナがこの惨事を、
誰にも話せないような過去を出来るだけハインに忘れさせようと努めたためだろう。
以来ハインは母親と会っていないし、ハイン自身周りの親族に母親のことを尋ねようとしなかった。
無論興味はあった。しかし、それを訊ねてはならないという雰囲気がどこかしら、
ハインを包み込んでいたのだった。それは確実に家族にとっての恥部であっただろうし、
また、それを回顧することは誰にとってもメリットのないことであったからだった。
ともかくハインは以後遠地へ引っ越して安寧を得た。新しい生活の中でハインは平和に、
実に平和に成長する。高校に入学した頃になってようやく、
ハインは自分の母親が宗教狂いであったことを知った。
当時の彼女には宗教に狂うなどと言う知識は当然無かったから、
母親が何故きちがいになったのか、何故自分を殺そうとするまでも神の言葉を盲信したのか、
さっぱり分からなかったのである。
- 17: ◆xh7i0CWaMo :2009/01/21(水) 21:52:33.32 ID:1tc0vRol0
- 何故母親が宗教に狂ってしまったのか。それは母が、物を知っていなかったからだ。
そう、ハインは断じた。母には知識が足りていなかった。もっと色々なことを知っていれば、
決してあのような、破滅的な信者になることは無かっただろう。神はいない。
いるとしても、神は決して人を救わないのだ。そうに違いない。
唯一神が救うのは、盲信に盲信を重ねて遂に狂った信者の頭の中でだけだろう。
以後、ハインは学者気質を自称して、科学的に物事を思考するようになった。
宗教などと言う訳の分からない唯心論に囚われないような人物を目指す。
つまり彼女は母親の呪縛によって、母親と対極に身を置くような人格を為しえたのである。
それが、自分か。ここまでを脳内でシミュレートして、ハインは軽く呻いた。
いつの間にか辺りはまた色塊蠢く無重力空間に切り替わっている。母の声はもう、聞こえない。
あの母親はおそらくハインと別れて数年後の姿であろうとハインは推測した。
ハインがいたころはあれほど部屋が荒れていなかったし、心なしか、経を唱える彼女の声は、
幾分老いたように聞こえた。あれは、この世の何処かで朽ち果てた母親の姿なのだ。
そう思ったところで、少しも同情や憐憫の感情は湧き上がってこない。
ただただ憎悪ばかりが増長する。今なお、殺してやりたいとすら思えた。
今の自分ならば母親を殺せる。殺してやりたい。殺してやりたい。
ともかく、これで自分の過去に関するデータは得られた。徐々に記憶も蘇っている。
このままここで流浪していれば、やがて全ての記憶が自分のところへ戻ってくる。
ハインはそれを期待し始めていた。趣向を凝らした夢だ、たまにはこういうのも悪くない。
だがしかし、ハインはそこでふっと我に返った。地に足をつけたような感覚だった。
浮遊していた脳味噌が頭蓋骨の中へ帰ってくる。そして再考した。あれは本当に自分の記憶か。
いやいや、そんな馬鹿な話があるものか。宗教狂いの母親。それから逃げ出した自分。
彼女のようになるまいと学者気質を形成した自分……アホらしい。
まるでストーリー仕立てだ、出来すぎている。自然主義リアリズムを装っているくせに、
ちっともリアリティの無い稚拙な小説のようだ。くだらない。
- 18: ◆xh7i0CWaMo :2009/01/21(水) 21:55:46.53 ID:1tc0vRol0
- また色の塊たちが急流を滑るように高速で乱れ飛び、景色を作り始める。
ハインの中ではすでに、直前に見せられた情景が自分の体験ではないことが確定していた。
何よりも現実感に乏しい。もし仮にあれほどショッキングな出来事があったとすれば、
今でも精神的外傷として心に残っているはずなのだ。過去のトラウマは現在の外傷によって、
再び意識下に発現する。ましてや自らの過去をかくも接近した形で再現されたのに、
実際にこれが自分自身の記憶ならばトラウマが喚起されないはずがないのだ。
自分の記憶でない証拠に、今ハインは至って冷静である。
つまらない人間がつまらないことで人を笑わそうとしているのを見るときと同じような、
冷めた目つきをしている。あれ、何故自分は精神的外傷について無闇に詳しいのかな、
そして、あの映像を何故自分が見ることになったのだろうかななどと、
そんなことを頭の片隅で考えられるほどの余裕さえある。
いつの間にかハインは教室の半分ぐらいの広さがある部屋に立っていた。
中央には大きな机が置かれ、それを複数のアルミ製の椅子が囲んでいる。
机の上にはポツンと、ノートパソコンだけが置かれている。
壁には窓一つ無く、この空間の外側を知ることは出来ない。振り返ればそこに木製の扉。
外界との、唯一の出入り口だ。そのほかには何も無い。
ハインはしばらくそこに佇んだ後、何の気無しに目の前の椅子を引いてそこに座った。
おそらく来るであろう何かを待つことにする。扉から外へ出るとか、ノートパソコンを操るなど、
手段はあるが、今のハインにはそこまで能動的に行動するほどの積極性は無い。
やがて扉が軋んだ音がして、振り返る一人の若い男が中に入ってきたところだった。
見覚えのない顔と対峙して互いに首を傾げる。いや、どこかで知っているような気がしないでもない。
賢そうな青年だ。たぶん、ハインよりは些か年上だろう。
彼はハインと視線が合っても表情を一切変えることなく、平然と歩いてハインの横を通り過ぎる。
そして、ノートパソコンの前に座り込み、電源スイッチを押した。
- 19: ◆xh7i0CWaMo :2009/01/21(水) 21:59:18.43 ID:1tc0vRol0
- まさか気付かれていないということはあるまい。そう思ってハインは声をかける。
しかし、青年は無言の表情を貫いたままだった。ただじっと起動中のノートパソコンを見つめている。
本当に気付かれていないのだろうか。或いは、彼はハインの姿や声を認めてないのかも知れない。
試しにハインは、勢いよく椅子を蹴飛ばし立ち上がってみた。
その物音に、初めて青年は顔を上げてハインのほうを見た。目に驚愕の色が帯びている。
そのまましばらくは焦点定まらないままにぼんやりと、空間を見つめていたが、
やがてフッと息を吐いて苦笑した。「なるほど、そういうことも、あるようですね」と、
誰にでも無しに呟いた。やはり、ハインの姿は彼の目に映っていないらしい。
ハインは内心ほくそ笑む。今の自分は、夢の中でとはいえ、透明人間と同類なのだ。
こんな体験など滅多に出来るものではないのだから、ここは楽しんでおいた方が勝ちである。
しかし一つ残念なのは、ここが何処とも分からぬ閉塞した室内であるということだった。
これでは透明人間でいることにほとんど意味が無い。
目の前の青年を弄ぶという児戯のような遊びも考えついたが、それはどうも矜恃に反した。
青年は再びディスプレイに視線を戻し、起動を終えたパソコンを操っている。
今度は物音を立てぬよう、ハインは青年の背後に回り込み、後ろから画面を覗き見る。
どうやらインターネットをしているらしい。ブラウザを立ち上げた青年は、
キーボードとタッチパッドを器用に操作して淡々とページからページへ移っている。どうやら彼は、
何の気無しにネットサーフィンをしているのではなく、ある一定の目的を持っているようだ。
やがてディスプレイに一つのサイトが表示される。バナー画像以外はすべて文字だけの、
今時珍しいシンプルな構成のページである。見やすさ重視の構成と言えるだろう。
『更新中』『リンク』『作品』『ジャンル別』『タイトルロゴ』『小説』などといった単語が目に飛び込む。
そして何より目を引くのは、散見できる所謂顔文字と呼ばれる記号列の数々だ。
一行ごとに顔文字がほぼ一つ、表示されている。中学生ぐらいが管理している小説サイトだろうか。
しかしこのページを、青年は食い入るように見つめている。
一行一行丹念に、文字一つ一つを貪り尽くすような勢いでゆっくりと確実に読み進めていた。
- 20: ◆xh7i0CWaMo :2009/01/21(水) 22:02:24.02 ID:1tc0vRol0
- ページの最後までを読み終えた青年は画面をスクロールさせてやや上に戻り、
顔文字の一つをクリックした。すると、また別の文字だけのページに切り替わる。
『第一章』『作者』などといった単語が散見でき、どうやら顔文字を持った行それぞれが、
おそらくは中学生あたりが書いている小説のタイトルであるらしい。
こうした素人小説のサイトなどというものはネット上にありふれているし、
実際ハインも何度か興味を持って読もうとした経験がある。そのたびに、あまりの稚拙さに辟易して、
すぐにページを閉じたものだったが。
何より、自分より年上であろう目の前の青年がこのページに異様なまでの興味を示している、
その理由がさっぱり分からなかった。まさかこの年齢にもなって素人小説に嵌っているはずもない。
ならば必ず青年には、このサイトに固執する理由があるはずだった。
第一章のページを開いて読み始めた青年の後ろから、ハインも同じくして読み始める。
それからしばらくは、ハインにとってはまさに拷問でしかなかった。
稚拙な文章に多数の誤字脱字、自動化された下らない表現に、台詞のたびに付属する顔文字。
やはりこれを書いているのは自分より幼い、小中学生であることは間違いなさそうだ。
まあ書いている子どもが遊び感覚で、内輪だけで楽しんでいる分には別に構わない。
腹立たしいのは、第一章から最終章まで読み切った目の前の青年である。
こんなものが楽しいと思えるのはどういうわけだ。もしかしたら、青年はこの、
素人グループに所属していて、彼らなりに内輪の楽しみを知っているのかも知れない。
それならそれで理解は出来るが、納得はし難い。それどころか妙に苛立つ。
青年は飽くことなく、次の作品へと移動し、読み始める。
付き合っていられないが、だからといって他にすることもない。
衝動的に目の前の頭を思いきりぶん殴りたくなったが、それをするのも憚られる。
と、そこへ再び軋んだ音がして、扉が開いた。
振り返るとそこに、野暮ったい黄緑色のセーターを着た男が立っている。
彼はしばらく扉の前でぐるりぐるりと首を動かし室内を眺望した後、にたらりと笑んだ。
- 23: ◆xh7i0CWaMo :2009/01/21(水) 22:05:25.90 ID:1tc0vRol0
- 青年はちらりと彼を見遣り、社交的な微笑みを浮かべた。どうやら知り合いではあるらしいが、
さほど仲の良い間柄ではないらしい。青年はすぐにディスプレイに視線を戻す。
セーターの男は顎に生えた無精髭を撫で、白痴のように口を半開きにしてしばし、
居心地悪そうに身を捩らせていたがやがて、つとつとと幼児のように拙い足取りで歩き出した。
ハインの傍を通って、(どうやらこの男にもハインの姿は見えていないらしい)
部屋の片隅まで辿り着くと、崩れ落ちるようにペタンと木目の床の上に座り込んだ。
膝を曲げて体育座りの姿勢を取る。顔を上げ、ぼんやりと、ベージュ色の壁を見つめだした。
時折何事かを口の中でもごもごと呟いている。ハインは彼に近づき、その台詞に耳を傾けてみる。
( )「あー、そうなんだよ。うんうん、そうなんだ。そう。そうだねえ。そうなんだよ。ああー。ああー。
うん、うんうん。そうだよね、うん。ふふふうふふふふ。はは。そうだなあ。あー。うんでもね。
あーそうか、そうだよなあ。そうか、そっちの方が良いな。えー。えー。えー。あー。うん。
でもさあ、あーその、あー。あーあー。えー。そうだよね、うんうんうん。あーうん」
以下同じような文言が延々と続く。意味があるような単語は一つとして出てこなかった。
その言葉からして、どうもセーターの男は壁と会話をしているらしかった。
しかし、酷く哀しいことに、物言わぬ壁を相手にしているにも関わらず、
彼の頭の中には相槌の言葉以外に何も出てこないのだ。日々の不満を語るわけでもない、
些末だがしかし、喜ばしかった出来事を報告するわけでもない。ただ相槌を打つだけなのに、
それでも生身の人間との会話は苦痛で仕方がないから、彼は壁に向かって頷き続けているのだ。
青年はまだノートパソコンで素人小説を読み耽っている。セーターの男も、
つまらないことばかり喋っていると分かって、ハインはいい加減この空間に退屈し始めた。
退屈が眠気を誘う。いっそここで眠ってやろうかなどと考える。夢の中で眠るとやはり、
夢中夢を見るのだろうか。それとも、現実世界へ覚醒できるかも知れない。
自分の現実世界とは如何なるものだっただろうかとハインは当初の疑問を想起した。
先程自分は青年の行動を見て、「自分も昔ネット小説を読んでいた」記憶があると、思い出した。
だがそれまでだった。断片的に切り取ったような記憶だけが、ふらふらと脳内に浮かんでいる。
- 24: ◆xh7i0CWaMo :2009/01/21(水) 22:08:33.92 ID:1tc0vRol0
- おかしな話である。もっと思い出すべき記憶があるはずだ。いや、それ以前に何を覚えていて、
何を覚えていないかも曖昧だ。自分の名前は分かる。ハインだ、ハインリッヒ高岡だ。
職業も分かる。学生だ、高校生だ。家族構成は、よく分からない。両親は健在だろうか。
兄弟姉妹はいただろうか。いまいち定かではない。一つ違いの姉がいた気がする。
一人っ子だった気がする。母は死んでいる気がする。孤児だった気がする。
過去のことは覚えているだろうか。どこまで昔のことを覚えているだろうか。
確か世界に特殊性夢遊病とやらが流行ったのは覚えている。その病に、
常ならぬ興味を持っていたことも、はっきりと覚えている。同じ学校にその患者がいたことも確かだ。
その患者と――。
ああ、そうだ。そういえば、自分には彼氏がいた。
名前はブーンだ。或いは内藤ホライゾンだったかもしれない。その彼氏が特殊夢遊病の患者だった。
その男に近づいたきっかけは、間違いなく特殊夢遊病の発病だった。
興味本位で、少しでも接して調べられるよう、自分はブーンに近づき半ば強引に彼氏の座に立った。
それから、ブーンと調査的な意味と交際的な意味の両方で付き合っていくにつれ、次第に、
彼のことが様々な面でもって分かるようになった。それは特別積極的にならなくても、
自然と入り込んでくる情報だった。彼の性格や癖、言動や笑いのツボなどが次第にインプットされた。
そうしていくうちに、自分は自然と彼に対し、恋愛的な意味合いで興味を持つようになった。
実際、特殊夢遊病のことを抜きにしても彼といることは楽しかったし、また、貴重な時間に思えた。
ブーンは性格的に頑丈な男ではない。守ってやらないと、と強く感じるようになった。
ふと、ハインはブーンの泣き顔を思い出す。みっともない、しかし心惹きつけられるその表情。
ブーンは優しい男だ。というよりはむしろ、人にあまり強い態度で出ることが出来ない男なのだ。
笑った顔は無邪気で温和だった。この男と一緒にいれば、先々にどんなことがあるだろうかと、
そういう夢想をしたこともある。女にしては、少々理想主義に傾いていたのかも知れない。
会いたい、とハインは願った。ブーンに会いたい。これだけはっきりしている夢なのだから、
そういう身近な、大切な人が出てきてこそ自然だろう。出てきて欲しい。自分は、ブーンに会いたい。
- 25: ◆xh7i0CWaMo :2009/01/21(水) 22:11:40.06 ID:1tc0vRol0
- おもむろに顔を上げ、ハインは虚ろに室内を見回してみる。いるはずもないのだが、
ハインは視線の先にブーンが映ることを期待していた。ふとした瞬間、視界の片隅に、
彼が現れそうな気さえしていた。
だが、当然のことながら何度首を動かしてみても、ブーンがそこに現れることはなかった。
その代わり、ハインの眼に室外へと続く唯一の連絡口である扉が映った。
そうだ、この向こうにブーンがいるかもしれない。ハインはほとんど直情的にそう考えた。
一方で、狂っているのだろうかとハインは自分自身を省みる。
自分はこんな性格ではなかったはずだ。自閉的に物事を鬱屈して考えるタイプでは無かったはずだ。
だが、そんなことはどうでもよかった。今はただ、目的を達成したかった。ブーンに会いたいのだ。
最早本能レベルの欲望は、ポツリと落ちた思索の雫をたちまちにして塗りつぶしてしまった。
フラリと歩いて扉の前に立つ。青年はまだパソコンのディスプレイを見続けている。
セーターの男はまだ壁に向かって言葉を発し続けている。曖昧に切り取られた時間の欠片を、
幾度も繰り返しているような違和感だった。次の展開が見えない、ここから脱出しなければ。
扉に手をかけ、乱暴に開く。扉の外側には何も無かった。
虚無は虚無の形をしている。虚無の色と虚無の音を伴って虚無は虚無の姿をしている。
ハインの目の前に広がるのは果てしない虚無だった。何も無いと言い換えても良い。
何も無い、虚ろな世界が無限に或いは有限に、どこまでも或いは五寸未満広がっている。
立ち尽くすハインはやがて、どうも此処にいてはならないような気がしてきた。
何故なら自分は、虚無ではないからだ。確かな実体を持っているからだ。
背中に巨大な節足動物が走ったような気がして、ハインは身を竦めた。
振り返って扉の中に戻ろうとした。しかし、少し前まで確かにあったはずの扉は跡形もなく消えていた。
そこにも虚無があった。いつしかハインは虚無に取り囲まれていたのだ。
すでにここには地面も空も無く、浮遊しているかも落下しているのか停滞しているのかも分からず、
無重力よりも更に不安定な空間にハインはただ独り放り出されているのである。
- 26: ◆xh7i0CWaMo :2009/01/21(水) 22:14:51.20 ID:1tc0vRol0
- それは決して心地の悪い感触ではなく、当初あった恐怖心も次第に消えていった。
睡眠に落ちる間際の、脳髄が身体を離れて漂うような、あの浮遊感覚に似ている。
そして、ハインを睡眠へと促すかのように、頭の中に無数の疑問が一斉に湧き上がった。
何故このような空間を漂っているのだろうか。ブーンはどこにいるのだろうか。
そもそもブーンとは誰だっただろうか。彼は本当に自分の彼氏なのだろうか。
自分の過去を疑ったのと同様に、ブーンの存在、所属をさして疑わなかったのは何故か。
ブーンは実在する人物だろうか。虚無とは何か。現実とは何か。実体とは何か。
自分の過去は何処に行ったのか。自分に過去は存在するのだろうか。
あの青年は何者か。あのセーターの男は何者か。そもそも、あの部屋は何なのか。
何故ノートパソコンがポツリと一つ置かれているのか。青年の見ていた小説は一体何か。
自分の中で、あの小説群と自分との関係性を指摘する声がするのは何故か。
あの凄惨な過去は本当は自分のものか。そうでないとすれば果たして誰の過去か。
そもそもあれは過去なのか。誰かの現在という可能性も考えられるのではないか。
経のようなものを唱えていたのは誰か。彼女は何故あのように狂ったのは何故か。
こうやって考えている自分は誰か。何故自分は自分を自分と呼ぶのか。
そもそも自分は存在しているのか。存在を認識している人物はいるのか。
これは夢なのか。そうでなければ一体何なのか。夢ならば何故覚めないのか。
最初に漂っていた空間は何だったのか。虚無と関係があるのだろうか。
何故自分は虚無を虚無であると知っているのだろうか。過去に見たことがあるのだろうか。
特殊夢遊病とは結局何なのか。それと今の自分の現状とは何か関係があるのか。
虚無にきてからどれぐらいの時間が経っただろうか。虚無に時間は存在しているのだろうか。
虚無に空間は存在しているのだろうか。何も無いからこその虚無ではないのか。
ではそこに存在している自分は一体なんのか。自分もまた、虚無の一部なのだろうか。
何故疑問ばかりが湧き上がるのだろうか。これらの疑問に答えを見いだすことは出来るのだろうか。
こうやって、とりとめもなく疑問を提示することに何の意味があるのだろうか。
こうやって、とりとめもなく生命を維持することに何の意味があるのだろうか。
こうやって、とりとめもなく物語を展開することに何の意味があるのだろうか。
こうやって、とりとめもなく虚無を浮遊することに何の意味があるのだろうか。
こうやって、とりとめもなく自己を認識することに何の意味があるのだろうか。
- 30: ◆xh7i0CWaMo :2009/01/21(水) 22:17:52.42 ID:1tc0vRol0
- 疑問は疑問を呼び他の疑問と関連性を持ち始めて更に膨らんでいく。
その一方で、疑問の答えとなるようなものは一向に見いだすことが出来なかった。
思考回路が破裂してしまうのではないかと危機感を抱き始めたとき、
ハインは自分自身が次第に虚無と同化し始めていることに気付いた。
いや、それは虚無に喰われていると表現した方が正しいのかも知れない。
ハインが虚無と同化することを望んでいるのではない、虚無が一方的にそれを望んでいるのだ。
精神的にも肉体的にも犯されていく感覚。それにさえハインは、少しの嫌悪感も抱かなかった。
性的快楽にも似たような感触をハインの脳は感知し、それに対してハインは、
そのまま喰われることを選択したのだ。それはある種、自殺願望のようなものでもあった。
もしも後で、「何故あの時身を任せることを選択したのですか」と問われたならば、
「その時の気分」だとか、「なんとなく」などと答えるだろう。長い悪夢は、ハインに、
主体性を失わせるには十分すぎるほどの作用を発揮していたのだ。
身体が失われていくのが分かる。脳味噌が溶けていくのが分かる。
感覚記憶その他諸々が虚無の中に吸い込まれていく。これは果たして死だろうか。
『永眠』がその字の通り死を表現するならば、現状は、進行形で死を体感しているに違いないだろう。
眠気のような気だるさは全身を包む。それは恍惚にもよく似ている。
痴呆症の老人はこのような感覚なのかなとハインは考える。
それが、ハインの最後の、正常な思考であった。
- 33: ◆xh7i0CWaMo :2009/01/21(水) 22:20:58.08 ID:1tc0vRol0
碌。
倉庫。地下室。エクストラコンプレックス。サソリ。ディスプレイ。父親。母親。親友。ブランコ。
店員。飛行機。津波。帽子人間。赤ん坊。墜落。炎上。待機時間。粘着物。髪の毛。影。
援助交際。夢中夢。戦争。針金人間。台所。深層心理。ボクシング。フライパン。小学校。
中学校。旧友。級友。マシンガン。廃墟。ピアノ。死体。マンション。砂漠。ワゴン車。クマバチ。
コンテナ。予備校。同窓会。ゲーム。エスカレーター。渡り廊下。覚醒剤。占い。頭痛薬。
神話。ヒロイン。紙飛行機。防空壕。メールアドレス。クローゼット。猫。地震。アスファルト。
委員長。門扉。歩道橋。宇宙飛行士。バス。国道。バッタ。カマキリ。ゴキブリ。携帯電話。
エディプスコンプレックス。豆電球。富士山。OL。コインロッカー。テロリスト。金縛り。一番線。
弁当屋。魔法少女。青ウサギ。コンピューター。割り箸。布団。ドイツ語。自転車。カレンダー。
蟻。キーボード。ブランコ。障害児。募金。アニマ。ライトノベル。年金生活。コイトス。裁判。
ライブハウス。吊り天井。フェンス。落書き。鼻血。カッターナイフ。幼稚園。艶笑。地球儀。
アポロ11号。図書館。出刃包丁。タナトス。自覚夢。ドラえもん。ノート。テレビ。エレベーター。
植物人間。金切り声。水難事故。夜行バス。空。オリオン座。時計台。パイプ。センター試験。
バトルロイヤル。消火器。音楽室。ドッペルゲンガー。呼吸。映画館。禿頭。夢日記。ベランダ。
胃潰瘍。死に際。幽体離脱。サディズム。マゾヒズム。スイッチ。純文学。祖父母。オセロ。
自動販売機。コンビニエンスストア。坂道。怪物。古墳。喧嘩。集団リンチ。怒号。他人事。
ボーリング。ゴルフ場。爆撃機。既視感。ファーストフード。クリスマスツリー。仏壇。墓地。
担任教師。絶縁状。回転体。鬼ごっこ。リストカット。窃視。魔術師。蜂の巣。濃霧。チャット。
ディスカウントストア。転校。レストラン。焼夷弾。階段。庭。ホテル。号泣。竹林。引き籠もり。
プラットホーム。鈴虫。木彫り人形。ゴミ箱。フラッグ。黒歴史。天使。無音。アルバム。もみの木。
鉛筆。ダンゴムシ。兎小屋。急流。CD。窓。幼稚園。虻。ゲームボーイ。画鋲。上履き。源氏物語。
電
- 35: ◆xh7i0CWaMo :2009/01/21(水) 22:24:11.65 ID:1tc0vRol0
- 夢を見ていた。長い永い、脳髄が腐敗するほどの時間を睡眠に費やした。
その間に無数のイメージが脳内にジリジリと染みこんで広がり続けた。
覚醒したとき、ハインが感じたのは不快な微睡みと、自己の喪失だった。
从 ゚∀从「……」
それでも、夢から醒めたという感覚はあった。曖昧な世界から抜け出し、
現実空間へと回帰できたという達成感と、それに伴う喜びは一瞬、ハインの身体を覆った。
だがその喜びは、本当にほんの一瞬のことでしかなかったのである。
ハインはまたも最初の空間を流浪していた。無数の色が軟体動物のように、
のべつ形状を変えて周囲を蠢いている空間。幾多の場面を経てハインは、
不可思議の始まりに戻ってきただけに過ぎないのだ。その上今回は、
その不可思議に現実感が付随しているのだから、尚更悪状況と言える。
从 ゚∀从「ったく、なんなんだよ一体……」
ハインは目の前の色の塊に手を伸ばす。それは、ハインの手に沿うように形を変化させ、
決してハインはそれに触れることが出来ない。彼女としては、何かしら行動を起こしたいのだが、
実際どうすることも出来ないのが現状だ。無重力空間を何の力を受けるでもなく、漂うばかりだ。
体内の臓器が遊離しているような気がして、軽い嘔吐欲を覚える。
从 ゚∀从「めんどくせえ、めんどくせえな……」
ハインは頭を掻き毟りながら呟いた。その時、彼女の頭上から声が響いてきた。
「そうか、面倒か」
- 36: ◆xh7i0CWaMo :2009/01/21(水) 22:27:18.94 ID:1tc0vRol0
- ふとハインは顔を上げる。そこに、女が一人いた。
整った顔立ちに黒い長髪の女。出会ったことの無い人物だ。しかしハインは、それが一体誰なのか、直感的に理解した。
この女こそ想像上の生物。無意識の産物そして、ハインにとっては調査対象。
从 ゚∀从「……お前が、例の魔法少女だな?」
その魔法少女は答えず、空間を滑るように動いてハインに接近した。
途中、彼女の身体が色の塊に接触する。塊は無音で弾け飛び、跡形も無く消え去った。
川 ゚ -゚)「クーという名前があるから、そっちで呼んでもらおうか。その方が具合が良い」
从 ゚∀从「へえ、お前みたいな存在にも、ちゃんと呼んで欲しい名前ってのが、あるんだな」
川 ゚ -゚)「私が呼んで欲しいと思っているわけではない。名前とは本来、
個体それぞれを識別するために使用するものだ。私は、識別されなければならない」
从 ゚∀从「意味がわからねーよ」
言いながらハインは、クーがもう少しこちらへ近づいてくることを期待していた。
手の届く範囲まで近づいた瞬間に、彼女を殴り飛ばす……ハインは密かに拳を固めながら、
そう画策している。そうして何がどうなるわけでもないが、取り敢えず、
彼女を殴る権利が自分にはあるような気がしていた。そして、そうしなければ、
昂ぶった感情がおさまりそうもない。鬱積し続けたストレスを、一気に発散したくてたまらない。
しかし、こちらは彼女のように、空間を自在に移動することが出来ない。
だからハインに出来るのは、彼女がこちらへ、もう少しこちらへ近づくのを待つのみだ。
- 38: ◆xh7i0CWaMo :2009/01/21(水) 22:30:08.40 ID:1tc0vRol0
- 从 ゚∀从「俺を、こんなところに放り出したのはお前か」
川 ゚ -゚)「そうだ。お前が、こちらのことを知りたいようだったからな。
どうだった、お前は此処を、どのように感じた?」
从 ゚∀从「お前の存在そのものと同じで、訳が分からなかったよ。
まるで自分が自分じゃないみたいだった。俺とは別のヤツが操る俺の身体と思考を、
内側から眺めているような感覚だった」
川 ゚ -゚)「ふむ、そうか。そうだろうな、お前のようなヤツならば、そう感じるだろう」
从 ゚∀从「……どうもさっきからけんか腰だな、お前。何か俺に、恨みでもあるのか」
川 ゚ -゚)「無い。強いて言えば、興味も無い。お前は、識別されるべきでは無い人間だ。
だから興味を持っても仕方がないし、そうする必要も全く無い」
从 ゚∀从「おーおー、随分な言われようだ。そりゃあ、赤の他人のお前みたいなヤツに、
俺は必要のない人間だろうよ」
川 ゚ -゚)「その思考は無意味だ。私は一個人として、お前が必要でないと言っているのではない」
从 ゚∀从「なに?」
川 ゚ -゚)「この物語の中で、お前の持つ役割は極めて小さい。そして、お前そのものの存在は、
もはや必要ない。この問答も、早く終わらせたいところだが」
从 ゚∀从「……ブーンに聞いたとおりだ。相当の電波だよ、お前」
川 ゚ -゚)「物分かりが悪い。ならば思いだしてみるといい、お前の過去を。
お前がこれまでに培ってきたはずの、記憶の数々を」
- 39: ◆xh7i0CWaMo :2009/01/21(水) 22:33:14.74 ID:1tc0vRol0
- 記憶。そう言われてハインは愕然とした。ほとんど何も思い出せないのである。
最も遠い記憶は、数日前の昼休み、ブーンに声をかけた場面だ。
それ以上昔の記憶が一切無い。思い出そうとしても掘り起こそうとしても、
まるで最初から無かったかのように、糸口すら掴むことが出来ないのだ。
从 ゚∀从「……」
川 ゚ -゚)「思い出せないだろう。当然のことだ、そんなものはそもそも、存在しないのだからな」
从 ゚∀从「……馬鹿言え。俺は人間だぞ。過去がなきゃ、俺がここまで育ってるはずねーだろうが」
川 ゚ -゚)「それは、まず前提からして間違っているな。お前は人間じゃない」
从 ゚∀从「……」
反論することが出来ない。過去を思い出せないのは事実なのだから。
朧気でも昔のことを覚えているはずなのだ。しかし、ハインにはそれすらない。
本当に、何も無いのだ。ふわりと浮かんだ泡沫のように、ハインは忽然と出現した、
そうとしか言いようがないのである。その存在が果たして、人間だと断言出来るだろうか。
黙り込んだハインを、クーはしばしじっと見つめ、やがて再び口を開いた。
川 ゚ -゚)「ブーンを愛しているようだな」
从 ゚∀从「……」
川 ゚ -゚)「安心しろ。彼は、お前よりも遥かに人間的だ。お前と離れても、
彼はこの物語が続く限り、生き続ける。それが、定められた運命だ」
- 41: ◆xh7i0CWaMo :2009/01/21(水) 22:36:12.55 ID:1tc0vRol0
- 从 ゚∀从「……妙な言い方をするじゃねえか。俺とアイツが、ここで離れるだと?」
川 ゚ -゚)「そうだ。ここでお前は役目を終えるのだからな」
从 ゚∀从「そんなことは知ったこっちゃねえよ。あのな、俺は別に、あいつが長く生きてても、
ちっとも嬉しいとは思わねえよ。一緒じゃなきゃ、意味ねえだろうが」
川 ゚ -゚)「……それはお前の独善的な考えだ。ブーンがそう思っているとは限らない。
それに……私はブーンの欲望やコンプレックスなどから発生した、
理想の女性像だ。お前が本当にブーンの恋人としてふさわしいならば、
私と全く同じでなければならないだろう」
从 ゚∀从「うるせえーよ。最初から完璧なヤツなんていねえんだよ。
まだ俺たちは付き合い始めてそんなに時間も経ってないんだからな。
まあ、そもそも付き合う動機も不純だったし……。でも今は違う。
俺はアイツのことが好きだし、アイツだって、俺のことは好きだ。それぐらい、
確認しなくても理解出来る。ともかく、時間はまだあるんだ。
これから幾らでも変わることは出来る。俺も、そしてアイツもな」
川 ゚ -゚)「……確かに、ブーンがお前を多少なりと好きなのは事実だ。
だが、例えそうだったとしても、最早どうすることも出来ない。
お前はここで消える。彼はお前を失う。それだけは確実なのだから」
从 ゚∀从「……俺は、お前が味方だと思っていたよ。ブーンを、メンヘラの女から救ったらしいしな」
川 ゚ -゚)「……」
从 ゚∀从「だが、実際はそうじゃないみたいだ。なあ、お前一体、何のために動いてるんだ?」
- 42: ◆xh7i0CWaMo :2009/01/21(水) 22:38:59.91 ID:1tc0vRol0
- 川 ゚ -゚)「それをお前に言う必要はない。何より、ここで言っては具合が悪い」
从 ゚∀从「……じゃあ、なんで俺はここで消えるんだ?」
川 ゚ -゚)「言っただろう。役目を終えたからだ」
从 ゚∀从「その役目ってのは、何に基づいてるんだ?」
川 ゚ -゚)「お前に言う必要はない」
从 ゚∀从「……使えねえな」
どうやらここで消えるらしい。ハインはゆっくりと考える。
消えると言うことはつまり、死ぬということだろう。しかしどうも、死に際する恐怖だとか、
後悔だとかそういった感情が湧き上がってこない。現実味が無いということもあろう。
目の前の電波女に消えるだの言われて現実だと信じ込める方がどうかしている。
しかし、この女に常ならぬ力があるのは間違いない。彼女が指一本動かせば、
ハインなど消し飛んでしまいそうな、そういう気はしている。
从 ゚∀从「ブーンと俺たちの価値観が違うのも、お前のせいか」
川 ゚ -゚)「……私がやったのではない。全ては無意識の成したことだ」
从 ゚∀从「無意識ねえ……」
川 ゚ -゚)「あらゆる妄想想像幻想夢記憶その他諸々の思考を具現化する。
それが無意識の反抗だ。その中で、多くの名もない人間が、
知らぬ間に消えていく。お前はまだ幸せな方だ。自分が消えることを自覚出来たのだから」
- 45: ◆xh7i0CWaMo :2009/01/21(水) 22:42:17.99 ID:1tc0vRol0
- 从 ゚∀从「おかしなもんだな。想像をする俺たちが消えたら、無意識も消えるだろうに」
川 ゚ -゚)「違う。むしろお前たちこそが、無意識より生まれたのだ。
お前たちの存在など、所詮はお前たちの次元の中での話でしか無いのだから」
从 ゚∀从「……もういいや。わけわかんねえよ」
川 ゚ -゚)「ああ、私もそろそろ、疲れてきたところだ」
そう言って、クーはハインの方へゆっくりと歩み寄る。
彼女にとってはこの空間に地面や重力があるかのような、ごく自然な歩行だ。
从 ゚∀从「消えるってのは、どういうことだ? 俺は、あっちの世界に行くのか?」
川 ゚ -゚)「そうだな」
クーは少し首を上げて上を見た。それから小さく呟く。
川 ゚ -゚)「天国だ。どうやらその方が、具合が良いらしい」
そして彼女は、ハインの眼前に立つ。途端に、ハインの腕がクーの首元に伸びた。
川 ゚ -゚)「!」
- 46: ◆xh7i0CWaMo :2009/01/21(水) 22:45:14.93 ID:1tc0vRol0
- 从 ゚∀从「いいか、これだけは、はっきり言っておくぜ」
川 ゚ -゚)「……」
ギリギリと、ハインは爪で穴を開けんばかりに、クーの首を掴む腕に力を込める。
一方でクーは、沈黙したままハインを、憐憫のような表情で見つめていた。
从 ゚∀从「お前の論理も無意識の反抗も知らん。もう、そんなのはどうでもいい。
ただ、お前だけは気に食わない。お前じゃ、ブーンを生かせねえよ」
川 ゚ -゚)「……安心しろ」
パチン、と音がした。
川 ゚ -゚)「そうやってブーンを心配する心も、お前と一緒に消える」
その瞬間に、ハインの脳味噌が音を立てて弾け飛んだ。
第六話『从 ゚∀从ハインは天国を探すようです』終わり。
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- 52: ◆xh7i0CWaMo :2009/01/21(水) 22:48:48.31 ID:1tc0vRol0
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――――――――――――――そして、あの時からすでに、五十年の月日が経過していた。
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第三千五百六十六話『虚構前談』終わり。
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